第 112 号
鳴門市「賀川豊彦記念館」「大塚国際美術館」
 平成19年113日(土)今年最初の偉人館めぐりへ向かった先は、徳島県鳴門市にある賀川豊彦記念館です。今年より新しく塾生となった西村さんの提案で勉強に向かいました。以前徳島県のドイツ館へ行きましたが、その隣にある記念館です。皆さんは香川豊彦という人物をご存知ですか?!私は、恥ずかしながらこの日まで、何を成し得た人物か全く知りませんでした。先ずは賀川豊彦についてご紹介致します。
 賀川豊彦は板野郡大幸村(現在の鳴門市大津町大幸)で、造り酒屋を営む磯部家の三男として1894年に生まれました。豊彦という名は、大麻比古神社の祭神である豊受姫尊と猿田彦尊から一文字ずつもらったと言われています。父(純一)は、自由民権運動が盛んだった頃、阿波の政治結社「自助社」の有力メンバーとして活動していましたが、44歳の若さで病死します。豊彦4歳の時、母(かめ)もまた、後を追うように他界しております。1900年(明治33年)名門徳島中学校(現在の徳島県立城南高校)へ難関を突破し一年早く入学します。旺盛な知識欲の持ち主で猛烈な読書家でもあった豊彦は、勉強やスポーツに打ち込み、優秀な成績を納めます。しかし、兄の経営する会社が事業に失敗し、遺産の全てを失うことになったうえ、結核にもむしばまれ苦悩する中で、アメリカ宣教師のローガンやマヤスと出逢い、キリスト教徒となった豊彦は、彼らの影響を強く受け、トルストイの非戦論など、戦争への疑問を強く持つようになりました。1905(明治38年)の卒業前に野外軍事教練の最中に、軍事教練へ反発する事件も起こしています。その後、明治学院神学部から神戸神学校しましたが、勉学に励むなか何度も結核との闘いの日々が続きます。豊彦自身、病苦・貧窮・失恋・孤独などによる絶望的状況の中から、1909年(明治42年)一身を投じて不幸な人々の救済に献身することを決意し、当時西日本最大(約2000戸・7500人)であった神戸葺合新川のスラム街に移住します。無料宿泊所・安料理屋・病人の介護や医療・日曜学校・伝道・無料葬式執行・職業紹介・保育所などの事業に取り組みました。また、子どもたちの保護や教育のために、一日里親や遠足などの試みもされています。しかし、これもまたアメリカの篤志家からの寄付が打ち切られ、救済活動の限界という壁にぶつかりました。一旦アメリカへ留学し、さまざまなアルバイトをしながら生計を建て、労働者デモやスラム街を見て回った豊彦は、救済活動だけでは不十分だと確信し、再び帰国し神戸のスラム街へ戻ります。アメリカの労働者デモの中で、「パンを与えよ」「仕事を与えよ」などと書かれたプラカードに衝撃を受け、「救済などでは駄目、労働者自らの力で救うより他に道はない」と労働組合から始める事を決意するのであります。1918年(大正7年)に友愛会神戸連合会で活躍、1922年(大正11年)には労働者新聞社社長となり、その後労働者教育の重要性を訴え、大阪労働者学校を開校しています。当初、労働組合と政治活動は一線を画くべきと教えていましたが、治安警察法の撤廃や最低賃金制の確立などから、政治改革なくして実現できるものはなく、普通選挙運動の指導者となりました。また、当時の多くの農民は土地を持たず、封建時代にも劣らない悲惨な生活を強いられており、親友でもある杉山元治郎を理事長とし日本農民組合も設立します。
 1923年(大正13年)9月2日関東大震災がおこります。豊彦は義捐金を集めるため、大阪・神戸・中国・四国・九州を駆け巡り、一ヶ月足らずの間に講演会を約40回開き、7,500円(現在の45千万円)を集め、大量の支援物資も東京へ送っています。また、自分が所有する数千冊の英書を売り、1,500円の義捐金、イエス教団の基本金から5,000円を合わせて寄付しました。豊彦は1926年(大正15年)に「ボランチア」という言葉を使っていますが、正しくボランティアの先駆けであったといえます。21歳からのスラム街での救済活動、関東大震災での救済活動の他にも、1927年の奥丹後地震1933年の三陸地方地震・大津波などでも現地で救済活動を行っており、先の阪神・淡路大震災で改めて賀川豊彦の存在がかえりみられましたが、時代を超えて今でも新鮮で学ぶべきところが多くあると言われています。
 その後も豊彦の活動は続き、労働者の生活を安定させるために生活協同組合運動や医療組合にも力を注ぎました。また、戦争の原因に資源問題や経済問題などが深く係わっていると考え、国際的な協同組合活動にも力を注ぎます。徳島中学時代から反戦論者であった豊彦は、日本の中国侵略に対する謝罪の詩を送り、国際的平和活動へも大きく貢献しています。太平洋戦争が終わると、世界連邦国家運動を起こし、1952年(昭和27年)に世界連邦アジア会議を広島に誘致し、議長を務めるなど、国の要人としても活躍します。豊彦が世界へ訴えた事は、「友愛と互助の精神・社会的弱者の救済」「生産・消費・金融等広い経済分野で協同組合をつくり、国家や地域内でも経済協力体制をつくる」「世界連邦国家をつくり、永遠に平和な世界をつくる」「友愛・互助・平和愛好の精神を高め、豊な自然から学ぶ教育の重要性」などです。大正デモグラシーの先頭に立ち、さまざまな社会運動を指導し、弱者と共に歩み、生涯を通じて世界平和のために身を捧げた人であります。
 賀川豊彦という人の偉業を学び、いつの世も偉人と言われる人々は、公のために尽くし抜いていることをヒシヒシと感じました。地位や名誉のためでなく、一貫して人々の暮らしを見つめる姿勢に自分自身を照らし合わせた時、まだまだ己の甘さを痛感致しました。我々四国政経塾も「地域から日本を変える」をスローガンに十余年の年月を経て、まさに今その課題に向かっての取り組みを始めています。賀川豊彦だけでなく、これまでに学んだ多くの偉人も、それぞれ逆境に立たされながら、しかし強い志と行動力によって、国を変える偉業を成し遂げています。彼らの生き方から学ぶべき事は大変多く、日々の活動への原動力となるのです。この偉人館めぐりの意義と重要性を改めて認識し、そして自分たちの活動が、我々の掲げる目標に向かって一丸となり進めるべく勇気も湧いてきました。
 この日、鳴門公園内にある大塚国際美術館も見学しました。この美術館は大塚製薬グループが創立75周年記念事業して設立されたものです。日本最大の常設展示スペースを有するだけあって、午後2時頃に会場入りしましたものの、閉館となる5時までに会場全てを見て回ることが出来ませんでした。館内には、世界25カ国・190余りの美術館が所有する名画等が、陶板によりオリジナル作品と同じ大きさに再現されています。古代遺跡や教会などの壁画も忠実に再現されており、陶板とはいえその迫力には圧倒されます。ダ・ヴィンチが描いた最後の晩餐など、小説や映画でご承知のダ・ヴィンチ・コードツアーなども催されています。ヴィチカンにあるシスティーナ礼拝堂の壁画は圧巻だと聞いていましたが、現在修復作業中で見学できず大変残念でした。入館料は一般で3,150円となかなかのお値段ですが、一見の価値はある美術館ですので、是非皆様も機会があればご覧になってください。
平成19年1月13日
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