第 114 号
鳴門市 賀川豊彦記念館
 賀川豊彦の人生をおおまかに紹介いたしますと、豊彦は神戸市に、回漕業者・賀川純一と・菅生かめの子として生まれ、幼少期に相次いで父母と死別し、5歳の時、姉とともに徳島の本家に引き取られるも、兄の放蕩により15歳の時賀川家は破産、叔父の森六兵衛の家に移り、旧制徳島中学校に通っていた。1904年、徳島教会の宣教師HW・マヤスより受洗。この頃のキリスト教の著作を読み、キリスト教社会主義に共感を覚える。また反戦思想にも影響を受け、軍事教練サボタージュ事件を起こす。伝道者を志し、1905年明治学院高等部神学予科に入学、卒業後の1907年、新設の神戸神学校に入学する。結核に苦しみ、また信仰への懐疑に懊悩しながら、やがて「貧民問題を通じて、イエスの精神を発揮してみたい」と一念発起し1909年神戸市新川のスラムに住み込み、路傍伝道を開始する。1911年に神戸神学校を卒業、1912年には一膳飯屋「天国屋」を開業した。1914年渡米し、プリンストン大学・プリンストン神学校に学び、1915年スラムでの経験を踏まえて『貧民心理之研究』を出版する。後に文中に差別思想があるとして部落解放運動関係者から批判された。1917年に帰国すると、神戸のスラムに戻り無料巡回診療を始めた。また、米国留学中の体験から貧困問題を解決する手段として労働組合運動を重要視した賀川は、鈴木文治率いる友愛会に接触し、1919年友愛会関西労働同盟会を結成、理事長となった。同年日本基督教会で牧師の資格を得る。1920年に自伝的小説『死線を越えて』を出版、一大ベストセラーとなり、賀川の名を世間に広めた。印税はほとんど関与した社会運動のために投じられた。また同年、労働者の生活安定を目的として神戸購買組合(灘神戸生協を経て現・コープこうべ=日本最大の生協)を設立、生活協同組合運動にも取り組んだ。 1921年、神戸の三菱造船所(現・三菱重工業)・川崎造船所(現・川崎重工における大争議を指導するも、会社側の強硬な対応により敗北を喫し、これを契機に関西の労働運動において急進的なサンディカリストの勢力が増していった。暴力を否定し、時には無抵抗主義を唱える賀川の人格主義的な主張は、次第に敬して遠ざけられるようになっていった。賀川はやがて農民運動に活躍の場を移すことになる。1922年、協力者杉山元治郎とともに日本農民組合を設立し、本格的に農民運動に取り組んだ。組合は急速に発展し、3年後の1925年末には組合員数は7万人を超えた。この間、1923年関東大震災の罹災者救済活動を行う。また無産政党運動にも積極的に関与し、1926年労働農民党結成に当たっては執行委員に就任するが、同年末の左右分裂に際して党を脱退した。1920年代後半以降は、社会運動から宗教活動へと比重を移していった。1929年、基督教連盟の特別協議会は賀川のイニシアチブにより「神の国運動」を議決、賀川は「百万人の救霊」を目標として、1932年まで全国を伝道のため巡回した。また米国・中国・欧州等世界各国で講演活動を行う。戦時中は反戦思想の嫌疑によりたびたび憲兵隊に拘引された。戦後は東久邇宮内閣参与や勅選貴族院議員を務め、日本社会党の結成にも参画した。マーク・ゲイン著「ニッポン日記」によると東久邇内閣の後任首相として有力であったらしいが、戦時中の翼賛的な活動が原因で実現しなかったとの事。同書には一般に知られる賀川の人物像とかなり食い違う姿が記されており、またそこで書かれている様な賀川への批判がGHQにより封じられていたともある。晩年は世界連邦運動に取り組み、1955年にはノーベル平和賞候補者として推薦された、1960年4月23日71歳東京上北沢の自宅にて称店召天。
 以上が賀川豊彦の人生で有るが我々学ばなくてはいけないのは、自分の考え、思想に自信を持ち行動するが、其処で又イロイロな問題が起き、其れを解決する為に又、次の目標に向かい行動して行く大切さと信念、自分の為に行動するのでなく他人(国・地域・家庭)の為に自分に何が出来るか又、如何なる方法が有るかを見い出し、自信を持って生きて行く事が一番大切であるかを知らされたのでないでしょうか。現代人はあまりにも周り気にし、他人からいやな目で見られたくない自分だけは(自己中心型)という考えが、本来の自分(本来の人間)を見忘れているのではないでしょうか、世間体を気にせず自分に自信を持つ事が出来れば最近起こっている事件は減少するのでは、最近の犯罪は自己中心型の人があまりにも多いから,虐めから始まり大人に成っても犯罪が悪いと思わない人が形成されるのでは、少しは自分を殺して他人(国・地域・家庭)の為に何が出来るか考えてみては如何でしょうか。

 賀川豊彦記念館を出た後、私は三回目でしたが、他の塾生が行った事が無いとの事で大塚国際美術館を見学に行きました。館内は世界初の陶板名画が原寸大で1,074点展示されています。
 残念な事に正面玄関を入ってすぐのシスティ−ナ・ホールが工事中で見れなかったのが心残りでしたが、一点一点鑑賞しながら館内を見て周りましたが三時間かけて全部の展示物が見れなく閉館時間になり、あらためて美術館の大きさと展示物の多さ、又凄さに感銘を受け美術館を後にし帰路につきました。
 私もですが、塾生にとって非常に有意義な一日でした。
平成19年1月13日
目次へ