第 131 号
伊達博物館訪問
 私個人的には宇和島に何故、伊達藩の誰がどんな経緯で来たのか、以前から興味が有りました。博物館には当時のイロイロな展示物は有りましたが、私の疑問に関しての資料は無く、只、秀宗氏から代々の藩主の系図は有りましたが、何故、伊達藩なのかの説明文が無く、仕方なくパソコンで調べたら下記のとおりでした。

 伊達秀宗(だてひでむね、天正19年9月25日(159
1年11月11日)- 明暦4年6月8日(1658年7月8日)は、江戸時代初期の大名である。伊達政宗の長男、母は猫御前(飯坂氏)。正室は井伊直政の娘ほか側室。名は兵五郎。伊予宇和島藩の初代藩主。陸奥国に生まれる。文禄5年(1596年)、豊臣秀吉のもとで元服し、秀吉から一字を賜って秀宗と名乗った。このとき、秀吉の計らいで従五位下の侍従に叙され、豊臣秀頼のお側小姓として取り立てられている。秀吉死後の慶長5年(1600年)に五奉行の石田三成らが五大老の徳川家康に対して挙兵すると、三成方の宇喜多秀家の邸で人質となる。政宗の長男であったが、生母の飯坂氏(猫御前)が側室だったために本家の家督を継ぐことができず、また、秀吉の側にいた身から徳川の世では仙台藩の藩主としてふさわしくないという理由で別家を起こすことを父・政宗が考える。慶長19年(1614年)の大坂冬の陣には父・政宗とともに参陣。戦後、徳川家康から参陣の功として政宗に与えられた伊予宇和島10万石を別家として継ぎ、その初代藩主となった。家臣団の多くは、政宗が伊達家中から選んだ者で、重臣は政宗の意を受けて秀宗を輔弼した。また、藩政整備のための初期資金として仙台藩から6万両の借財をした。元和6年(1620年)家老山家清兵衛が対立していた桜田玄蕃に襲撃されて一族皆殺しにあう。秀宗はこれを幕府や政宗に報告しなかったことから、激怒した父から勘当されてしまう(清兵衛はもともと政宗の家臣であり、政宗側の人間であった。そのためか事あるごと様々なことに口を挟んだため秀宗は疎ましく感じていたとされる)さらに翌年、怒りの収まらない政宗は老中土井利勝に対し宇和島藩の返上を申し入れた(和霊騒動)結局、利勝のとりなしで政宗は申し入れを取り下げ、政宗と秀宗は面会し、この場で秀宗は長男であるにもかかわらず仙台藩の家督を継げなかったことや、長期にわたって人質生活を送らされていたことから政宗に対しかなりの恨みを持っていることを話した。政宗もその秀宗の気持ちを理解し、勘当は解かれた。この件をきっかけとして親子の関係は良好になったとされる。その後秀宗は藩政に力を注ぎ、明暦3年(1657年)には五男伊達宗純に伊予吉田藩を分地する。寛永15年(1638年)頃より病床に臥す事が多くなり、実質的な政務は世子であった次男の伊達宗時に任せており、『大武鑑』などでも代に宗時を入れている記述が見られる事より、幕府も質的な主は宗時であると認識されていた。1653年に宗時が逝去した後は三男の伊達宗利が世子となり、1657年7月21日、宗利に家督をって居した。1658年に死去、享年68。
 展示物は感動するものが有りましたが、せっかくの此れだけの資料館であるのなら、その当時の経緯を説明資料が有ればより、納得出来るのでは!!

 博物館を後にして、愛媛県歴史文化博物館に向かいました、中の展示物は、最初に歴史展示物、原始、古代(愛媛のあけぼの)*中世(武家社会下の伊予)*近世(幕藩体制下の伊予)*現代(愛媛県の誕生と歩み)と愛媛の歴史を解り易く展示されていました。
 民族展示は民族情報 *祭りと芸能 *愛媛のくらし *四国遍路 *その他の展示(考古展示*文書展示)*体験学習(衣、食、遊)に関する様々な道具を使って昔の生活を体験できる。他に会議室が何部屋か有りました。

        

 非常に素晴らしい建物と此処でしか見えない展示物、何度か訪問をしましたが、何時も館内はガラガラ、この様な立派な施設をモット多くの人に見てもらう為に何か対策をして、努力しているのか、何時も訪問時に感じています。いっそ、松山に施設を移し、愛媛の観光資源の一つとして、全国にPRすればかなりの入場が見込まれ、赤字解消に成るのではないでしょうか?安易に既存の施設に移すのでなく、愛媛の何処が一番適しているのかを調べ適切な場所に早く移転する事を願いながら帰路に着きました。
平成19年9月8日
目次へ