第 162 号
日本新世紀ビジョン研究会参加
 7月19日、松山全日空ホテルで、参議院議員山本順三先生の日本新世紀ビジョン研究会に参加、ゲストに衆議院議員小池百合子先生をお迎えしての講演でした。

             

 先ず、山本順三先生の講演でしたが、今後、日本が迎えるであろう、イロイロな問題点を上げ、此れに対して、国が如何に対処していくか等の話、今後の日本の有るべき姿をお話聞かせて頂きました、又小池百合子先生は資源の無い日本は今のシステムを考え直し、全く新しいエネルギー、食料等、資源の無い国が今後、如何にして国を存続させるかとゆう、非常に興味有る話でしたが、時間の都合、細かい話が聴けなかったのは、残念でした。

 講演会を後にして、秋山兄弟生誕地を訪問いたしました。
 兄、好古は軍人・松山藩士(下級武士)秋山久敬(ひさたか)の三男として(現大街道3丁目に出生) 一時教職にあったが、1877(明治10)年陸軍士官学校、1883(明治16)年陸軍大学を経て騎兵科を志す。
 1887(明治20)年久松定謨(ひさまつ さだこと。1867〜1943;軍人;松山藩主久松【松平】定昭の養子となり家督をつぎ、フランスのサン-シール陸軍士官学校でまなぶ。フランス公使館付武官,近衛歩兵第一連隊長,歩兵第五・第一旅団長などをつとめ、1920【大正9】年陸軍中将)伯爵の補導役としてフランスへ留学。日露戦争で騎兵第一大隊長。後に騎兵学校長となり明治陸軍揺籃期の騎兵科を捜索伝令用だけでなく「戦略機動集団の騎兵」として強化発展させ、"騎兵の父"と仰がれた。
 日露戦争では、少将として騎兵第一旅団長となり、世界最強のコサック騎兵を敵として、育成早々の騎兵集団を駆使して渡り合い、遼陽、奉天会戦で敵の退路をおさえ、陸戦最後のダメ押しで大成功をもたらした。好古45歳のときであった。
 この時代に好古は、自分の国家観と人生観を次のように述べている。
「国家の衰退は常に上流階級の腐敗より起こらないものはない。一家一族は国家の実利を挙げたならば、名刹を放棄して、速やかに閑居する必要がある。これが私の多年の宿論だ。それゆえ、その素志を果たそうとしたことは一再にとどまらない。しかし、いまは事変のため、戦場に赴くことになるだろう」「勝ち戦に驕り(おごり)功名を追えば、敗れる」しかし、日露戦後多くの軍人は、秋山の言とは裏腹に、驕り高ぶりしだいに功名を追うようになり、武力で満州や中国を制圧する暴挙にでた。実際太平洋戦争は、好古が戒めた「勝ち戦に驕り功名を追えば、敗れる」を地でいくようなものであった。
 好古のような軍人がもう少し多くいたならば日本は、おそらく別の道を歩んでいたであろうといわれている。
 好古はその後、第一及び皇居の守衛および儀仗の任に当たった近衛師団の団長を経て、1916(大正5)陸軍大将(大将は現在でいえば大臣級)、朝鮮駐箚(ちゅうさつ=役人が他国に派遣されて滞在すること。駐在)軍司令官、教育総監(陸相・参謀総長と並ぶ地位)、軍事参事官の陸軍要職をつとめ、1924(大正12)年予備役になる。
 久松伯爵や井上要(かなめ=1865〜1943。明治から昭和時代前期の実業家、政治家。伊予鉄道の社長となり、伊予水力電気、松山電気軌道などの合併に尽力。松山商工会議所会頭などを歴任し、松山高商の創立にも尽力した)らこわれて当時、「不良少年養成所」とまでいわれていた北予中学(現松山北高)の校長(従2位勲1等功2級の陸軍大将が田舎の中学校の校長になることなど当時として考えられなかったできことであったことから、このニュースは全国を流れた。また生徒たちは、秋山に一目おき、(ドイツの軍人、政治家のヒンデンブルグあやかり「ヒンデンブルグ」というニックネームをつけた)に単身赴任、余生(生涯最後の6年間)を無遅刻・無欠勤で後進の育成に尽くし、1930(昭和5年)11月4日午後7時10分、満71歳の生涯を閉じた。
 弟、眞之は軍人・松山藩士秋山久敬(ひさたか)の五男。松山の中歩行(かち)町(現大街道3丁目)に出生。15歳で上京、実兄好古宅に寄寓(きぐう=一時的に他人の家に住むこと)、やがて親友の正岡子規と東京・神田に下宿する。
 1886(明治19)年海軍兵学校に入学、同校を主席で卒業する。日清戦争を経て97年アメリカに留学、近代米国海軍戦術を究め、緻密なシステム思考で海軍有数の戦術家へと成長する。 1899(明治32)年イギリスに駐在、1900(明治33)年に帰国、常備艦隊参謀となる。
 日露戦争では、中佐として連合艦隊司令長官東郷平八郎の作戦主任参謀として活躍、日本海海戦では遠来のバルチック艦隊を迎かえ、「皇国の興廃此の一戦に在り 各員一層奮励(ふんれい)努力せよ」のZ旗を旗艦三笠に掲げ、伊予水軍伝来ともいわれる「丁字(ていじ)戦法」を駆使し、意表を衝く敵前旋回を展開、敵艦隊を撃滅完勝して戦局の大勢を決した。
 「敵艦見ユトノ警報ニ接シ、聯合(れんごう)艦隊ハ直(ただち)ニ出動、之(これ)ヲ撃滅セントス。本日天気晴朗ナレドモ浪(なみ)高シの報告文にみられる海軍きっての名文家としても知られる。
 日露戦後、中国革命の父孫文(そんぶん=1866〜1925;三民主義【民族の独立(民族主義)、民主制の実現(民権主義)、地権平均・資本節制による経済的不平等の是正(民生主義)の三原則】を主唱して辛亥【しんがい】革命を指導。陵墓が中国の南京市の東、紫金山の中腹にある中山稜【ちゅうざんりょう】。なお、「中山」は孫文の号)が日本滞在中に、革命のための資金を調達したのが災いして1914(大正3)年4月17日に軍令部参謀兼海軍大学校教官から就任した軍務局長を1916(大正5)年2月20日に解任される真之と孫文との間にどの程度の交渉があったかを示す記録はない。孫文の自叙伝『志さらばついに成る』には、彼を助けた日本人の氏名が紹介されているが、この中にも秋山の名前はない。しかし、1918(大正7)年に秋山真之が、病没した際、当時日本政府の命により箱根に逼塞していた孫文がしきりに葬儀に出席したがったこと、追悼会や納骨式の際に必ず代理人を遣わしたこと、その後も兄の好古、季子(やすえ)未亡人に挨拶を欠かさなかったことから、2人の間に緊密な交流があったことが推察される。
 おそらく袁世凱(えんせいがい/ユアン=シーカイ;1859〜1916。中国の軍人・政治家。李鴻章【りこうしよう】を継いで北洋軍閥の首領となり、辛亥革命では革命派と結び、清朝の宣統帝を廃位して臨時大総統に就任して独裁政治を行い、帝政実現を図ったが失敗)政権一派や日本政府の監視の目が憚られる中で軍務局長と言う要職にある真之は孫文との直接接触は避けたに違いないと思われる。
 1917(大正6)年中将に昇格したが、待命(たいめい=軍人や大使・公使などが、その勤務を免ぜられたあと、新しく他の在外公館に勤務するまでの間待機していること)を受ける。
 翌、1918(大正7)年2月4日、盲腸炎から腹膜炎を併発死去する。真之49歳のときである。 兄好古は、真之が死んだ4カ月後の1918(大正7)年6月15日に開かれた追悼会の席上次のように述べている。

「弟真之には、兄として誇るべきものは何もありません。が、しかし、ただひとつ、わたくしから皆様に申し上げておきたいのは、真之はたとえ秒分の片時でも『お国のため』という観念を捨てなかった、四六時中この観念を頭からはなさなかったということです。このことだけははっきりと、兄としていい得ることです」

 秋山兄弟の様に日本国民が何時も、国や地域を思う気持ちを如何なる環境、境遇であれいつも持ち続けたいものである。(幕末時代、国を思い命をかけ、議論に議論を重ね命をかけた、幾多の志士達の思いと如何なる気持ちで、今の日本国を作り出したかを思い、今一度、日本を見直す為には、私達が、物余りの時代に甘えて、今日がいい日あればいいで生活することなく、新しい日本を作り出す為には、今もう一度、幕末以降の歴史を真剣に、日本国民は勉強すべきではないでしょうか?
 秋山兄弟生誕地は、今の自分を反省し、考えらせられた、空間でした秋山兄弟生誕地を後にして、帰り道でも有ったので伊丹十三記念館を見学に寄りました。

 伊丹十三は京都市右京区鳴滝泉谷町に生まれる第二次世界大戦末期、京都師範付属国民学校(現・京都教育大学 附属小学校)をたて、湯川秀樹によって当時構想された、科学者養成のための英才集団特別科学学級で教育を受けた。当時としては珍しく、戦時中に英語教育を実践していたと云われる、中学生の時に父親は死去する。京都府立第一中学校に入学。 その後、愛媛県松山市へ移り、愛媛県立松山東高等学校に転入。ここで大江健三郎と知り合う。その後、二度落第して 愛媛県立松山南高等学校に転入。同校を卒業したが、大学を受験して失敗したため、東京へ行き新東宝編集部を経て商業デザイナーとなる舞台芸実学院に学び、26歳の時大映に入社、「伊丹 一三」という芸名で 俳優となる。1960年に日本映画界の巨人である川喜多長政・川喜多かしこの娘の川喜多和子と最初の結婚をする。同じ年に作家であり友人の大江が妹ゆかりと結婚する。1961年、大映を退社する。その後『北京の55日』『ロード・ジム』などの外国映画に出演し、話題となる。1969年に「伊丹 十三」と改名し、映画とテレビドラマで存在感のある脇役として活躍した。『家族ゲーム』(1983年)『細雪』(1983年)では、キネマ旬報賞助演男優賞を受賞している。 1960年代には、外国映画に出演した際のロケ道中をまとめたエッセイ『ヨーロッパ退屈日記』を出版しヒット。その後も『女たちよ!』など軽妙なエッセイを次々と発表し、文筆業にも活動の場を広げた。1970年代に入るとテレビ番組制作会社テレビマンユニオンに参加し、『遠くへ行きたい』等のドキュメンタリ−番組の制作に関わり、自らレポートする。この時培ったドキュメンタリ−的手法は、その後の映画制作にも反映している。また『日本世間噺大系』『小説より奇なり』に見られる、独特の聞き書き書体はこの時代の経験を反映している。また70年代後半には『アフタヌーンショー』のレポーターを務め、“緻密な画力”で犯罪現場をスタジオで描いてみせた。1969年に山口瞳の媒酌で女優の宮本信子と再婚し、宮本との間に子供を二人もうける家事や子育てにも関心が深く、著書訳書もある。ちなみに長男の万作は父の名前をそのまま取って命名された。1984年、51歳で『お葬式』で映画監督としてデビューし、日本国内で高い評価をうけ、受賞した映画賞は日本アカデミー を始めとして30を超えた。この映画は信子の父の葬式がきっかけであり、わずか一週間でシナリオを書き上げた。この作品で伊丹はその前歴の俳優・エッセイスト・ドキュメンタリー作家・CM作家・イラストレーター・商業デザイナーとしての全ての経験が活かせる事を発見し、その後も食欲 と性欲の未分化な人びとを喜劇的に描いた『タンポポ』や国税局査察部・通称「マルサ」に対する徹底した取材を元にした『マルサの女』ヤクザの民事介入暴力と戦う女弁護士を描いた『ミンボーの女』など、日本の社会に対する強い問題意識をもちながら、かつエンターテイメント性に富み、映画史的引用や細部にこだわった映画作品を作り、一躍当時の日本を代表する映画監督となり「伊丹映画」というブランドを築く事に成功する。
 特に1992年の『ミンボーの女』では、地上げやゆすりをやる暴力団は市民が勇気を持って賢く行動すれば引き下がることを描き、観客は大喜びした。これまで日本では、映画でヤクザ(暴力団員)をヒーローとして扱い礼賛していた、公開1週間後の5月22日夜に自宅の近くで刃物を持った5人組に襲撃され、顔や両腕などに全治三ヶ月の重傷を負うが「私はくじけない。映画で自由をつらぬく。」と宣言した(病院に搬送された際に取材陣から「大丈夫ですか!?」と声をかけられて、声こそ出なかったもののピースサインで応えた)。警察は現場の車より山口組系後藤組の犯行であることを突き止めた。5人の組員が4年から6年の懲役刑となった。
 1993年3月には自称右翼の男が『大病人』公開中の映画館のスクリーンを切り裂く事件が起こるなど数々の被害や脅迫・嫌がらせを受ける事となったが、襲撃事件により身辺警護を受けた経験は、1997年に『マルタイの女』で映画化された。『タンポポ』はアメリカでも配給され評判となった。ただ、1993年『大病人』以後の作品は批評家の評価も厳しいものとなり、また『マルサの女』『マルサの女2』において、主人公(権藤)やソープ嬢を障害者とする設定を行ったことに対して、倫理的観点から厳しい社会的批判を受けた。
 演出面での特徴は俳優に対して一言一句のアドリブも許さず、画面に映る全ての小道具に一切の妥協を許さないという厳格なものであった。しかし俳優がNGを出しても決して怒鳴り散らしたりしないため、俳優にとっては非常にやり易かったという1997年12月20日、写真週刊誌 「フラッシュ」により不倫 疑惑が取り沙汰されたことに対して「死をもって潔白を証明する」とのワープロ打ちの遺書を残し、伊丹プロダクションのある東京麻布のマンションから投身自殺を遂げた。2001年、大江健三郎の小説『取り替え子』に伊丹十三を思わせる人物が描かれ、話題となった。2007年5月、妻・宮本信子が中心となって、少年時代の一時期を過ごした愛媛県松山市に「伊丹十三記念館」をオープンさせた。晩年になって東京から移り住んだ湯河原の家などから遺品8万余点を集め、彼の名にちなみ「13のコーナーに分けて展示公開している。
 伊丹十三とゆう人物の一生が時代別に展示され、展示物一つ一つにその人のその時代、時代の考え方、物の見方わかり易く面白い記念館で有りました。
 私にはよく解らないけど、芸実とか芸人とかその時代の人間模様、時代背景を映画なり、本、絵などに残す人々は、勝手な生き物で自分の思いだけで生きて行き周りの人のことを考えず自分勝手な行動をする人が多いのだと感じました、人間としてやってはいけない事、つまり自分の命を自分の為の名誉か自己満足かは解らないけど、自殺とゆうつまらない結末で終わらせている人が多いことである、私には絶対に許せない行動です。
平成20年7月19日
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