第 168 号
中岡慎太郎館から学んだこと
 中岡慎太郎という名前は知っていたが幕末の勤王の志士というくらいの認識しか頭に浮かばず、むしろ土佐の勤王の志士としては、坂本龍馬の名前の方があまりにも有名である。
 しかし幕末から明治維新における激動の時代において命をかけて真に日本の黎明の一翼を担ったのは見方によっては、坂本龍馬より中岡慎太郎の方が勝っていたのでは…とのテーマをもって、2月14日()に高知県安芸郡北川村・中岡慎太朗館を訪ねた。

 中岡慎太郎は、1838年、現 高知県安芸郡北川村柏木に大庄屋・中岡家六人家族の長男として生まれ、3歳になると父から読み書きの手習を学び、4歳になると地元、松林寺住職・弾定和尚(ぜんてんおしょう)より読書を学ぶなど幼少から土佐の山村において今で言う英才教育を受けた。
 7歳(1844年)には、家から片道90分をかけて鳥ヶ森の山道を登り、野友村の漢方医・島村策吾の塾入門し、「四書」
 ・ 大学〜身を修めることから天下を治めることに至る政治の根本精査
 ・ 中庸〜天と人間を結ぶ深奥な原理を説いたもの
 ・ 論語〜仁を中心とする孔子およびその内の思想が語られているもの
 ・ 孟子〜民生の安定、徳教による感化を中心とする王道政治を主張したもの
を学び政治道徳や人間としてどう生きるべきかという事を“儒学”によって身につけ、このことは中岡慎太郎の将来における政治と社会に対する洞察力の基礎を身につけていたと考えられた。
 また、13歳には、安田浦まで足をのばし篠崎小竹の手本により書道を学ぶが決して無駄口を言わず信じたことは譲らず実行する子供であったと言われ、14歳になると先生に代わって講義をしていた。
 このように幼少時代から英才的な教育を受けて更に“儒学”を身につける事により、儒教の精神の基礎が固まり、1857年(安政4年)20歳に野友村庄屋・利岡彦次郎の長女・兼(かね)と結婚した。
 若き庄屋見習中岡慎太郎は、上北川郷の度重なる飢饉に・西谷村浜渦藤四郎(はまうずしうしろう)村有林の払い下げを願い、また、官庫を開き飢饉にさつまいも500貫を手に入れるため城下の官邸前に正座して一夜を明かした姿を見て蔵人は、必死の陳情を聞き入れて官庫を開いくという北川郷村民のためには、身命を持って飢饉対策うなど幼年から初期の青年期において勤王の志士としての熱い血潮の芳芽とも言うべき社会正義実現のための行動が見られていた。

             

        

 今回、中岡慎太郎館を訪れ、中岡慎太郎の人間像につい、土佐の片田舎において幼少期から初期の青年期において“儒学”など人間形成の教育と激動の時代背景の中での生き方に興味を持った。
 現在の政治ねじれ現象や離婚や家庭の崩壊等が多く見られる中で、幼少期から青年初期の人間形成のときに一番大切な何かを忘れてきている気がしてならなかた。
平成21年2月14日
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