第 170 号
中岡慎太郎会館訪問
 何回目かの訪問で有るが私にとって、訪問の度に力をくれる資料館でもある。
 慎太郎は土佐藩の大庄屋の息子として生まれ「民衆が安心をした生活をすることができて、初めて殿様や国というものが成り立つものだ」と役人に訴えたそうです。
 薩長同盟を成し遂げたのには「国民が安心して暮らせる国」を作るための手段と考えから30年間の覚ましい行動が出来たのではないでしょうか?
 慎太郎の人生は、30歳という短い生涯で幕を閉じましたが、常に献身の気持ちを忘れない草莽の志士というにふさわしい人と思われます。皆さんも一度、中岡慎太郎会館を訪れ中岡慎太郎の魅力を直に感じ今後の人生のヒントに成り、行動が出来ると思います。
 薩長同盟は龍馬一人の手によって成されたと思われがちですが、東奔西走し 、薩摩、長州の意見をよく聞き、お互いの利益を元に和解を成立させた慎太郎の功績は非常に大きく、龍馬、慎太郎の2大英傑がいなければ成立しなかったといえるでしょう。今の世の中もこの2人が生きていたら変わっていたかもしれません。
 龍馬と、慎太郎の奇跡的出会いが、日本を動かし、世界に目を向け「日本を何とかしなければ」という思で 東奔西走したからこそ維新が成されたと思われます。(二人だけの力では無いがキッカケを作ったと思われます)

 そんな中岡慎太郎の足跡を紹介したいと思います。

 中岡慎太郎会文参照
 中岡慎太郎は、1838(天保9)年4月、土佐国安芸郡北川郷柏木村(現在の高知県安芸郡北川村)に大庄屋中岡家長男として生まれました。7歳になると野友村にある島村策吾の塾で儒学を学び始め、14歳になると先生に代わって授業をするほどになっていました。慎太郎の父、中岡小伝次は、将来自分の跡を継ぎ、北川村の大庄屋として村人達の生活を守る仕事をしてもらいたいと、そして人から手本にされるような立派な人間になってもらいたいと願いをこめ、慎太郎の教育に力を注いだとのことです。
 島村塾で学力を伸ばした慎太郎は、さらに磨きをかけるため、17歳から、藩校田野学館(現在の県立中芸高等学校)へ通い始めました。この学校では、習字、漢字、歴史以外に、剣道、柔道、弓道、槍術、砲術、練兵などの武術を学ぶことができました。この頃、慎太郎は、学友に地球儀を示し、「日本もやがて、世界の国々と対等の交わりの出来る強力な近代国家になるように全国民が努力せねばならぬ。」と力説したとの逸話が残されています。

 1855(安政2)年8月7日、武市瑞山が藩命で藩校田野学館に出張、剣術を教えていました。慎太郎は瑞山の武術と人格に敬服、瑞山が高知に戻ると、慎太郎も高地にでて、新町田渕の武市瑞山道場に入門しました。

 1856(安政3)年、瑞山が臨時剣術修行の為に江戸に出発したため、慎太郎もその跡を追って江戸に行き、瑞山と同じく桃井春蔵の道場に入門しました。しかし、1858(安政5)年、慎太郎が20歳の時、父・小伝次が病気で倒れたため、北川村に戻り、大庄屋のみらないとして仕事を引き継ぎました。郷里に帰ってきた慎太郎は父の言葉に従い、野友の庄屋利岡彦次郎の長女「兼」15歳を妻に迎えました。
 慎太郎は、村人の生活がよりよくなるためにはどうしたらいいのかということを常に考えて仕事をしていたそうです。北川村は、山ばかりで平地が少ない所で、米をたくさん作るのが難しい土地でした。そこで、慎太郎は、毎年一定した量の米が取れるように、田んぼを規則正しい長方形に整理しました。また、村人に家を建てるときの材木用にと「杉」の木を、魚が美味しく食べられること、高く売れることから「ゆず」の木を植えることを推奨しました。
 この頃、北川村では地震や飢饉のため、食糧不足に苦しむ人々が多く、慎太郎は、自分の土地を売ってサツマイモを買い込み、村人達に配りました。それでも、食料が足りなく、土佐藩家老の桐間蔵人へ土佐藩の米蔵に蓄えてある米をわけてもらうようにお願いしに行ったとのことです。慎太郎が城下町に着いたのが夕方だったため「明日出直してこい。」と門番に言われた次第でしたが、慎太郎は、一刻を争う重大なことと、そのまま眠ることなく、門の前に座り続け、夜が明けるのを待ち続けました。そんな慎太郎思いが伝わり、明くる日、桐間蔵人は米を慎太郎に分け与えたとのことです。
 慎太郎が、土地を売ってまで村人を助けようとしたのは、大庄屋という仕事が「村人の生活を守り、平和な生活ができるようにする・・・」ということに由来します。また、慎太郎がこれまで学んできたこと、村での仕事を通し「民衆が安心をした生活をすることができて、初めて殿様や国というものが成り立つ」という考え方をもっていたからです。
 エピソードとして残っているものですが、藩の役人と村人がもめごとを起こしたとき、慎太郎は「我々民衆がいてこそ殿様や国家というものが成り立つのだ。まして民衆の利益を無視した法律なんてあるわけがない。その法律を守って動かすのは人間である。役人がいちいち法律の細かいところにこだわって民衆を苦しめるは何事だ!責任は拙者が引き受ける。」と役人を追い返したそうです。
 このような村人に対する姿勢は、村を越え、藩を越え、日本という国まで広がりました。民、百姓をいかにして安心して暮らせるようにできるのであろうかと・・・。
 そんな慎太郎の思いが、幕末の志士として存在を生み出したのです。
 皆さんもよくご存知のペリー提督率いる黒船来航以後、全国では尊皇攘夷に目覚める若者が急激に増えてきました。中でも、長州藩は藩をあげて尊皇攘夷活動に尽力を注いでいました。
 全国的な尊皇攘夷の活発な動きは、土佐藩の下級武士や郷士を強く刺激しました。特に、井伊直弼による安政の大獄で、土佐藩15代藩主山内容堂が処罰されたこともあり、新しい時代に乗り遅れてはならないという危機感から、武市瑞山が1861(文久元)年、尊皇攘夷運動を開始すべく新しい政治団体「土佐勤王党」を結成しました。土佐勤王党には坂本龍馬も慎太郎を始め、約200名が加盟しました。
 武市瑞山は、郷士や下級武士たちが政治に関わると国の秩序が乱れると勤王党の意見に反対をした執政役の吉田東洋を暗殺し、藩の方針を尊皇攘夷に変えさせることに成功します。また、瑞山は、さらに藩主山内豊範率いる土佐藩兵を京都に向かわせ、朝廷と長州藩に働きかけ、三条実美を勅使として江戸に送り込み、徳川幕府に攘夷実行を強く働きかけるよう精力を尽くしました。
 このころ、江戸に謹慎中の山内容堂の命を狙うものがいるという噂が広がり、慎太郎は、容堂の警備のために、五十人組と呼ばれる警備隊に参列しました。慎太郎はここでリーダー的実力を発揮するとともに、容堂の命令で、信州松代にいる佐久間象山を土佐藩に呼ぶための使者として命じられます。慎太郎は、象山の幅広い知識や西洋諸国の進んだ科学技術の話に圧倒されます。
 しかしながら、新太郎の属する土佐勤王党の存在は、1863(文久3)年におこった8月18日の政変により危機をむかえます。この政変により、長州藩と三条実美ら尊皇攘夷派の公家7人は京都から追い出され、また、これを機に、全国各地で尊皇攘夷派を弾圧する動きが始まりました。土佐藩では、吉田東洋を暗殺した武市瑞山をはじめとする土佐勤王党の主だった人々が牢に入れられました。
 身の危険を感じた慎太郎は脱藩を決意します。

 1863(文久3)年9月19日、脱藩し土佐を離れ長州にいた慎太郎は、三田尻(現代の山口県防府市)の招賢閣にいた三条実美ら七人の公家と面会し、土佐藩の現状を伝えました。三条実美は、父親の三条実万の遺志「朝廷の権威を高め、朝廷が政治の実権を握るべきである」を受け継いだ、尊皇攘夷派のシンボル的な存在でした。慎太郎は、三条の手足となって各地の情報を集め、三条の遺志を伝えてことに徹しました。ここでの、慎太郎の実力が認められ、招賢閣会議員(招賢閣にいる三条らの家来や脱藩浪士のまとめ役)として任命、また、京にはいり高杉晋作・久坂玄瑞らと活動、土佐藩邸にも出入りし土佐藩の事情・他藩の内情に精通するようになりました。

 1864(文久4)念の禁門の変で長州軍として参戦しています。また、禁門の変で、真木和泉、久坂玄瑞を亡くした忠勇隊(長州に集まった諸藩浪士の軍隊)を引継ぎ隊長して活躍しました。八月十八日の変、禁門の変によりますます仲が悪くなる薩摩・長州に対し、勝海舟は「徳川幕府は政治を行う力はなく、これからは薩摩や長州など有力な大名達が協力し合う政治体制にしていくべきである。」と説き、薩摩の西郷隆盛は衝撃をうけます。そのときから、慎太郎は、薩摩と長州の代表者たちの間を何度も訪れ、「薩長連合」について粘り強く交渉を開始します。
 慎太郎は、薩摩にいる西郷を長州藩の代表者に会わせ、薩長同盟の機会を設けましたが、あいにく西郷が下関に寄らず京へ急いだため会議が中止となってしまいました。しかし、その頃、下関に坂本龍馬がおり、この薩長同盟に興味を示していました。その頃龍馬は「亀山社中」という今の商社にあたる会社をつくっており、薩摩の武器、長州の米といった商品の輸送や買い付けを行うことで両藩を結びつける最大の可能性を握っていました。1965(慶応元)年、慎太郎は、西郷に会うために龍馬と共に出発、途中芸州や備前で長州に見方についてくれるよう駈けまわりました。こうした龍馬との東奔西走の甲斐あり、1966(慶応二)年1月21日、薩長同盟が成立しました。
 新しい国づくりに力を尽くしていた慎太郎、龍馬に動かされた後藤象二郎は、長崎で龍馬が率いる海援隊、慎太郎が率いる陸援隊を作ることを決めました。陸援隊は、1867(慶応3)年に京都白川の土佐藩邸を本部とする土佐藩の陸軍のような役割を担い、薩長両藩と土佐藩の連合軍で、徳川幕府と戦争をして新しい国づくりをするための陸軍として誕生しました。
 このように、新しい国づくりに尽力した慎太郎ですが、1867(慶応3)年11月15日悲劇に襲われます。慎太郎は、新撰組につかまっている土佐の同士が釈放され、その身柄の引き取りについて京都河原町に下宿している谷守部を訪れに行きました。しかし、谷が不在だったため、近くの龍馬を訪れたとのことです。命がけで国づくりに励む二人は、討論することも多く、そのうちお腹がすいたとのことで、同士岡本健三郎に「軍鶏(しゃも)」を買いにいかせます。二人が軍鶏を待っている間、「十津川郷士」を名乗る人間が龍馬を訪れ、龍馬・慎太郎はこの刺客に暗殺されました。龍馬はこの時、ほぼ即死状態、慎太郎は、その2日後の11月17日に昇天しました。まだ30歳という短い生涯でした。
 重傷をおった慎太郎は、駆けつけた陸援隊士田中顕助に「刀を持たなかったのが不覚のもと。諸君も今後は注意せよ。こちらからも早くやらぬと、また反対にこの通りにやられるぞ!」と伝えたそうです。また、慎太郎が死期が近づいたのを知る者のように同士に後の事を頼み、「岩倉卿(岩倉具視)に伝えてください。王政復古のことは貴下の力による!」と訴えたそうです。
 慎太郎の絶命をきいた岩倉具視は「自分は片腕をもがれた」と声を上げて泣いたと言われます。葬儀は、17日の午後8時で、陸援隊、海援隊の同士はもちろん、土佐藩氏、在京の諸国藩士、有志の参列により行われたとのことです。みな目に涙を浮かべながら、3つの棺を見送ったとのことです。

 皆さんも一度中岡慎太郎会館を訪問し、今、日本人が忘れかけている、奉仕の精神(他人を思いやる心、地域を思う気持ち、国を愛し良き日本国を作る気持ち)を思い出してみては如何でしょうか?
平成21年2月14日
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