第 171 号
坂本龍馬記念館・自由民権資料館 訪問
 平成21年3月14日()偉人館めぐり事業を実施、高知県立坂本龍馬記念館・高知市立自由民権資料館へ研修に出かけました。先月訪問した「中岡慎太郎館」との関連もあり、維新の先駆けとなった近代歴史の舞台を勉強して来ました。高知県立坂本龍馬記念館は四国政経塾初代塾頭(現顧問)の橋本邦健氏が、自身が龍馬になり8年間に及ぶ全国行脚で10億円の寄付を集め、全国に龍馬会を立上げたのちに高知県に寄贈したという私達にとっては有名な伝説のある施設です。
 さて、前回の中岡慎太郎館では慎太郎の幼少期〜青年期にスポットを当てて見てきましたが、今回も坂本龍馬の幼少期について興味深く資料を見てきました。先月の記事にも掲載しておりますが、中岡慎太郎は幼少より学問に励み、7歳にして野友村漢方医である島村策吾を師とする島村塾で四書を学び、14歳にして島村塾の代講を勤めるまでになっています。また高松順蔵の塾で南学(朱子学の一派)を学び、乗光寺で書を極めました。時の世はペリーが浦賀に来航するなど諸外国から多くの艦がやって来た頃、土佐藩は藩校野田学館を設置し、向学心に燃える慎太郎は直に17歳の時に入学しています
 坂本龍馬は、1835年(天保6年)11月15日に、高知城に近い本庁筋に生まれ、子供の頃は泣いてばかりいたので、「鼻たれの泣き虫」などと友達にからかわれていたそうです。12歳の時に小高坂の楠山塾に入りましたが、直ぐにやめてしまいます。3歳年上の姉乙女(オトメ)は、剣術や弓、馬術も出来る活発な女性で、龍馬を可愛がり龍馬に強くなってもらいたいと、剣術などを教えたそうです。勉強嫌いの龍馬でしたが剣術は賢明に励み、14歳のとき、小栗流の日根野道場に入門します。19歳の時、江戸にて千葉定吉道場に入門し、北辰一刀流長刀兵法目録を授かり、剣術の腕を上げていきました。土佐に帰った龍馬は、ペリー来航で開国か攘夷か騒がれるなか、土佐藩の役人・河田小龍を訪ね、航海術と海運業の必要性を教えられ、海の向こうに大きく目を開くことを教えられました。
 ここまでを見て、慎太郎と龍馬の幼少期からの人間形成の違いが垣間見られます。あくまで自己解釈ですが龍馬はすごく柔軟性に飛んだ人物だったのではと想像します。学問は嫌いだったのでしょうが、必要な情報や勉強は進んで吸収していたのではないでしょうか。後の親友・薩長同盟交渉の折、共に京都へと向かった三吉慎蔵(みよししんぞう)は、龍馬の人柄をこのように言っております。現代的には龍馬の人柄を一番よく言い表しているようです。

「問 坂本ノ人ト為リハ、過激ノ方ナルヤ」

「答 過激ナルコト毫モ無シ、且ツ声高ニ事ヲ論ズル様ノコトモナク至極オトナシキ人ナリ。
   容貌ヲ一見スレバ豪気ニ見受ケラルルモ、万事温和ニ事ヲ処スル人ナリ。
   但シ胆力ハ極メテ大ナリ。」

 龍馬は、声を荒げて論ずるのではなく、極めて温和な人であったようです。それでいて胆は据わった決断力のあった人物でした。中岡慎太郎と晩年に大政奉還後の状況に意見に相違が見られたのも、幼少からのそれぞれの生い立ちが大きく影響していたように思いました。自分自身の生い立ちからすると龍馬の幼少期は何か自分と重なる部分がありまして・・・、とは言っても勉強嫌いで愚童であったと言う部分だけですが・・・。何かしら人間味というか親近感を持つ人物に映りました。慎太郎・龍馬お互いの性格や人間的魅力が、それぞれの役割をこの時代に確かに果たしていたのだと思いました。多くの人が坂本龍馬に魅了されるのも、温和な人柄や決して幼少期から天才的な人物ではなかったけれども、熱い志を持って維新の先駆けとなる数々の偉業を成し遂げるに至り、時代を超えて共感を覚えるものがあるのだと感じました。国を憂いながらも龍馬の目には日本を越え、海の向こうの世界に思いをはせていたのでしょう。志半ば33歳の短い生涯の中に日本人の魂を感じ、記念館の窓から広い太平洋を見つめると、ホンの少し龍馬になった気持ちになって、これから取り組む数多くの課題に「きばらないかんぜよ!」と自分自身を奮い立たせて参りました。

 次に向かったのが自由民権資料館です。この資料館は高知市が市政100周年を記念し、新たな100年へのシンボルとして自由民権運動を中心に土佐の近代歴史を次の時代へ引き継いでいくために建設されたものです。また、その意義を現代や未来へ活かす為の歴史博物館でもあり、近代日本の歴史に大きな役割を果たした日本初の民主主義運動の歴史を学ぶことが出来ます。
 1873年板垣退助の参議辞職から、翌74年(明治7年)1月12日に愛国公党を設立しております。納税と民の参政権を要求した運動は、幾度も弾圧を受けました。第1回衆議院議員総選挙は明治27年7月1日で、実に20年間に渡り自由民権運動が繰り返されました。
 また運動の資金源ともなる立志社を創立し、新聞や民権歌謡、遊説などを行い、民衆に広く根強く訴え続けた粘り強い運動が繰り広げられています。資料の中でふと目に留まったのが、立志社遊説のなかで、私の住んでいる馬立や川之江(現在の四国中央市新宮町・川之江町)でも、植木枝盛や栗原亮一が遊説を行ったという記録が記されていたことです。古くから大名行列の幹線であったこともあり、土佐との関連の深い土地柄ではありますが、自由民権運動の足跡が残されていたことに何かしら深い感慨を覚えました。
 植木枝盛の遺稿「無天雑録」の中に「未来が其の胸中に在る者、之を青年と云ふ」と記していますが、自由民権運動はまさに近代日本の青春でした。しかし、青年の理想は実現せず、日本は軍事強国への道を歩み、アジア諸国を侵略し甚大な被害を与え、敗戦によって再び新しい時代が到来し、民権派の憲法草案が生かされた日本国憲法が誕生しました。自由民権運動が目指した民主主義日本の実現は、日本国憲法の理念であり、私達の理想であります。自由民権運動は歴史に学び歴史を創造するために、豊かで貴重な経験を残しています。
 再び自由民権資料館を訪れて、政治家も国民も歴史に記された先人の経験に今一度目を向ける必要があると思いました。政治は国の為にあり、国民の為にあるものですが、今の政治のあり方については、当然政治家の資質も問われますが、選ぶ側の国民にもその意識が無くては良い政治家を送り出すことは出来ない。つまり選ばれる側にも選ぶ側にも、国を思う気持ちが無ければ本当の良い国づくりはできないと思うのです。近年の政治を見ておりますと、マスメディアの影響もありますので、全てがそうだとは思いませんが、政治家も国民も互いに批評や批判することに終始しており、一人一人が役割を果たすべきとの意識が低下してしまっているように思えてなりません。難しく考えるのではなく、他人を思いやり人に親切にする。自分のことのように人のことにも気を配ったり、自分だけよければと考えるのではなく、人も自分も幸せになれるような提案をしたり、話し合うことが大切だと思うのです。
 私は常日頃より批判からは何も生まれないと思っています。互いに認め合うことから、新しい道が開けると信じております。混迷の時代と言われる今の日本の政治の在り方にも通じるものがあるように思います。是非とも政治家の皆様はもちろん、多くの方々が関心を持って今一度民主主義の原点を見つめ直し、現代に置き換えながら活かせるものがないか?!一人でも多くの方が、もっと人や地域に関心を持てば、今まで以上に本当の意味で国力を持てると思いました。
平成21年3月14日
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