第 172 号
坂本龍馬記念館・自由民権資料館 訪問
 朝9時に塾を出発し、約1時間程で、坂本龍馬記念会館着きました。記念館はオレンジとブルーの大胆な色の組み合わせた建物で今のも大海に乗り出す船を想像出来る建物です。
 龍馬は1835年11月15日にこの世に生を受け、幼少の頃は泣き虫のひ弱い少年でしが、乙女姉さんに教育を受け、19歳で江戸に向かい北辰一刀流千葉定吉道場に入門し24歳で北辰一刀流長刀兵法目録を受ける。
 龍馬が薩長同盟を結ぶ立役者でも有るが、先月訪れた中岡慎太郎の事もこの薩長同盟には忘れてはならぬ人物である、中岡慎太郎は知識で何とか日本を変えたい、日本の国の将来像を見据えて活躍するも、願い叶わず、龍馬の知恵を借り大きく時代が動き出す事に成ったのではないでしょうか?
 松下幸之助塾主は「知識は道具であって其の道具使うのが知恵である」と良く塾主の本にで見かけました、正に、龍馬の知恵と慎太郎の知識が無ければ時代を動かすキッカケと成った 薩長同盟は無かったのではないでしょうか?
 龍馬の生涯は下記のとおりです

 天保6年(1836年)1月3日、土佐に生まれる。12歳の時、小高坂の楠山塾 で学ぶが退塾。14歳で高知城下の日根野弁治の道場へ入門し、下士の習う小栗流和兵法を学ぶ。嘉永6年(1853年)剣術修行のため江戸(東京都)に出て、北辰一刀流剣術開祖千葉周作の弟の千葉定吉の桶町千葉道場(通称:小千葉道場)(東京都千代田区)に入門した。12月には佐久間象山の私塾にも通っている。安政元年(1854年)に土佐に帰郷。画家の川田小龍から西洋事情を学ぶ。安政5年(1858年)剣術修行を終えて帰国。北辰一刀流免許皆伝。文久元年(1861年)3月、土佐で井口村刃傷事件が起り、龍馬の属する下士と上士の間で対立が深まる。半年後、下士は武市瑞山をリーダーに土佐勤王党を結成し、龍馬は9番目に加盟した(土佐では加盟第1号)。10月、武市の密使として長州へ向かい、翌年2月、久坂玄瑞と面談。文久2年(1862年)3月に沢村惣之丞とともに脱藩した。その直後に勤王党による吉田東洋の暗殺事件が起り、当初は龍馬が実行犯として疑われた。龍馬は九州などを放浪した後、江戸へ入り千葉道場に身を寄せる。その後、千葉重太郎の紹介で、幕府政事総裁職の松平春嶽に面会。春嶽の紹介状を携え、12月、勝海舟に面会して弟子となる。文久3年(1863年)、勝が進める神戸海軍操練所の設立に尽力し、操練所よりも先に開設された神戸海軍塾の塾頭をつとめる。勝・松平春嶽の運動で土佐藩主山内容堂から脱藩の罪を許される。この頃、龍馬は勝の護衛に勤王党の人斬り・岡田以蔵をつけている。八月十八日の政変で京から尊攘派が駆逐され、土佐勤王党も藩によって壊滅状態となる。藩の弾圧は江戸の龍馬にも伸び、龍馬は再脱藩する。

 元治元年(1864年)、神戸海軍操練所が創設された。龍馬はこの頃、弾圧が激しさを増していた京の尊攘過激派を救うべく蝦夷地への移住計画を開始するが、池田屋事件によって頓挫した。池田屋事件への報復である禁門の変で、長州側に多数の海軍塾生が加わっていたため、海軍塾は幕府から弾圧され、勝も解任された。勝の庇護を失った龍馬であるが、勝の紹介で西郷吉之助(西郷隆盛)を頼って大阪の薩摩藩邸に保護される。 慶応元年(1865年)、京の薩摩藩邸に移った龍馬の元に中岡慎太郎らが訪問。この頃から中岡と共に薩長同盟への運動を開始する。薩摩藩の援助により、土佐脱藩の仲間と共に長崎で社中(亀山社中・のちに海援隊)を組織し、物産・武器の貿易を行った。 龍馬は、長崎のグラバー商会(イギリス武器商会のジャーディン・マセソン商会の直系)と関係が深く信用を得ていたが、8月、薩摩藩名義で香港のジャーディン・マセソン商会の信用状により長崎のグラバー商会から買い付けた銃器弾薬を長州藩に転売することに成功した。この年、「非義勅命は勅命にあらず」という文言で有名な大久保利通の書簡を、長州藩重役に届けるという重大な任務を龍馬が大久保や西郷に任されている。 慶応2年(1866年)、1月、坂本龍馬の斡旋により、京都で長州の桂小五郎(木戸孝允)と薩摩の西郷隆盛が会見し、薩長同盟(薩長盟約)が結ばれた。このとき龍馬は桂に求められて盟約書の裏書を行っている。天下の大藩同士の同盟に一介の素浪人が保証を与えたものであって、彼がいかに信を得ていたかがわかる。直後の2月、寺田屋で幕吏に襲撃されたが一命を取り留める。その傷を癒すため、妻おりょうと共に鹿児島を旅行する。6月、第二次長州征伐では亀山社中の船・乙丑丸で長州藩海軍を支援。 慶応3年(1867年)、土佐藩との関係を修復して海援隊を創設した。4月、いろは丸沈没事件がおこり御三家紀州藩に損害を賠償させる。後藤象二郎とともに船中八策を策定し、後藤象二郎が山内容堂を説いて土佐藩の進言による大政奉還を実現させた。12月、京都の旅寓・近江屋(京都市中京区)で何者かに中岡慎太郎と共に暗殺された。旧暦の誕生日と命日は同じ。暗殺犯は京都見廻組という説が有力である。 明治4年(1871年)、8月20日に龍馬の系統が途絶えるのを防ごうと、綸旨により姉千鶴の長男高松太郎が「坂本直」として龍馬の名跡を継いだ。 墓所は京都市東山区の京都霊山護国神社参道中腹。なお、靖国神社に祀られている。龍馬資料館を後にして、 自由民権記念館に向かいました。

 自由民権記念館の資料室に入ると、大きく「自由は土佐の山間より」と書かかれ、一見でこの地から近代日本の歴史に土佐の自由民権運動が大きな役割をはたしたのだと感じ取れる味のある文字でした。無論、日本最初の民主主義運動でした、高知市民の誇りでしょう。
 自由民権記念館は高知市市政100周年を記念に自由民権運動のシンボル施設として建てられた記念館です。


 自由民権運動
 明治初期、藩閥専制政治に反対する土佐(高知)藩士の板垣退助(1837〜1919=討幕運動に参加。維新後参議となったが、征韓論を主張し、敗れて下野。1881〔明治14〕年に自由党を結成、のち、第2次伊藤内閣・第1次大隈内閣の内相となる)・肥前(佐賀)藩士江藤新平(1834〜1874=尊王攘夷運動に参加。維新後、司法卿となり、司法制度の近代化に努めたのち、参議。征韓論〔1873【明治6】年、西郷隆盛・板垣退助らが朝鮮の排日的鎖国主義を名目として、これを討つことを主張した論。同年欧米視察から戻った岩倉具視・木戸孝允・大久保利通らは内治優先を唱えてこれを退けた。以後征韓派は下野し、士族反乱や自由民権運動を展開する〕に組して敗れ、下野〔げや=官職を辞して民間に下ること〕、不平士族に推されて佐賀の乱を起こし、斬罪〔ざんざい=打ち首〕のうえ梟首〔きようしゅ=さらし首〕となる〔打ち首獄門〕。のち、大赦令によって罪名消滅)らによる人間は自由・平等であるとの基本思想に基づき、国会開設(参政権)・憲法制定・地租の軽減などを要求した政治運動を自由民権運動という。
 運動は、政府専制の弊害を批判し、民撰議院(国会)の一日も早い開設を要請して運動の端緒を開いた1874(明治7)年の民撰議院設立の建白書(意見書)に始まり、1880(明治13)年3月に24府県114人の代表が集まり大阪の大融寺で結成された「国会期成同盟」を中心に組織的に取り組まれた。
           民撰議院設立の建白書(意見書)

「いま政権は皇室にも人民にもなく、薩長の高級役人だけがにぎっている(藩閥政治)。法令がつぎつぎに出されては、すぐに、改正されるありさまで、政治や刑罰が私情に左右され、賞罰も愛憎によってきめられている。
言論の道はふさがれ、その苦しみを訴える方法もない。
こうした状態を救う方法は、天下に公議世論をさかんにして、民選議院をたてるほかない」(一部要約)

 1880(明治13)年4月5日に政府が、警察の許可無く自由民権運動の集会や団体の結成を禁止するばかりか警察が集会を解散させる権限を有する集会条例を制定して弾圧に乗り出す中の同月17日には、「国会ヲ開設スル允可(いんか=許可)ヲ上願スル書」を(本文のあとに2府22県の請願人の代表97名の連署が続く)政府に提出した(政府は受け取りを拒否)ことを契機に全国的に広まった(請願書や建白書は140件、署名数は32万人にのぼった)。

 こうした民権運動の思想は、自由民権思想を鼓吹(こすい=励まし、元気づけること)した演歌(元々は演説のような主張に節をつけてうたった)によって民衆の間に浸透していった。もともと演歌は、自由党の壮士たちが、新しい流行歌として創作、街頭で読売して、それが大衆に受け入れられ、後年、おっぺけぺ節(川上音二郎〔1864〜1911=博多生まれの俳優。おっぺけぺ節を大阪の寄席で唄い人気を得る。1891{明治24}年書生芝居を組織して、のちの新派劇の基礎をつくった。妻の貞奴{さだやっこ}とともに欧米を巡業。東京に川上座、大阪に帝国座を建設した〕が歌ったが最初で、おもしろおかしく節を付け「おっぺけぺ、おっぺけぺっぽう、ぺっぽっぽう」の囃子詞〔はやしことば〕で結ぶもの。劇場のほか街頭でも盛んに歌われた)で一世を風靡(ふうび=多くの者をなびき従わせること)するところとなる(古茂田信男他『新版日本流行史−上−』社会思想社)。

民権数え歌

一ツトセー 人の上には人ぞなき 権利にかわりがないからは コノ人じゃもの
二ツトセー 二つはない我が命 すてても自由のためならば コノいとやせぬ
三ツトセー 民権自由の世の中に まだ目のさめない人がある コノあわれさよ
四ツトセー 世の開けゆくそのはやさ 親が子供におしえられ コノかなしきよ
五ツトセー 五つにわかれし五大洲 中にも亜細亜は半開化 コノ悲しさよ
六ツトセー 昔をおもえば亜米利加の独立したのもむしろ旗 コノいさましや
七ツトセー なにゆえお前がかしこくて 私らなんどは馬鹿である コノわかりやせぬ
八ツトセー 刃で人を殺すより 政事で殺すが憎らしい コノつみじゃぞえ
九ツトセー ここらでもう目をさまさねば 朝寝はその身のためでない コノおささんせ
                                   (以下略)
                                 作 植木枝盛
                            1878(明治11)年
※原詩は20番まである。
 土佐の政治結社「立志社」の遊説員が歌ったものと言われている


 1881(明治14)年には、10年後の国会開設を約束する詔勅(しょうちょく=国会開設ノ勅諭)を引き出し、普通選挙による議会主義を目指すフランスの民権思想を取り入れた自由党(党首・板垣退助)やイギリスの立憲政治を模倣した立憲改進党(党首・大隈重信)などの政党結成へと進み、一定の成果を上げるが、政府の弾圧強化と運動内部の対立、また、板垣が東海地方遊説中の1883年4月6日、岐阜県厚見郡富茂登村(あつみぐんふもとむら=現・岐阜市)にある神道中教院において暴漢に襲われ負傷する(この事件は衝撃的なニュースとして全国を席捲した。なお、有名な「板垣死すとも自由は死せず」という言葉は、この時発せられた=板垣遭難の図)ほか、福島事件(1882年11月)や加波山事件(1884年10月)・1万人の農民が決起した秩父事件(1884年10月)など激化事件が相つぐなかで次第に衰えた(1884〔明治17〕年10月自由党解党。立憲改進党も活動停止)。

 しかし国会開設が近づくと、旧自由党の星亨(1850〜1901=舌禍事件、出版条例違反で2度入獄。のち衆議院議長。政友会結成に参加し、第4次伊藤内閣の逓相となるが、東京市の疑獄事件で辞職。その後も政友会院内総務として権勢をふるったが、01〔明治31〕年に暗殺された)らは1886(明治19)年民権派の再結集を呼びかけ(大同団結運動)、翌87年(明治20)年、「租税の軽減」「外交失策の挽回」「言論集会の自由」の三つの要求を掲げた「三大事件建白運動」(「三大事件建白書」送達願)が展開され、多数の活動家が上京して政府に対して陳情請願活動が繰り広げられる事態となった。

 これに対して政府は同年(87年)12月、これらの活動家達を東京から締め出すため「保安条例」を発し(1898〔明治31〕年廃止)、(3日以内に)東京(皇居)から3里(12キロ)以外に追放した(退去命令書)。こうした弾圧政策により運動は次第に鎮圧されるのであった。

 そして1889(明治22)年2月11日、大日本帝国(明治)憲法と衆議院議員選挙法(定数300、原則小選挙区制、選挙権資格・直接国税15円以上で25歳以上)及び貴族院令が発布され、東京をはじめ各地で盛大な祝典が挙行された。
 ここに立憲政治の基礎が敷かれたのであったが、同時に大赦(たいしゃ)令公布され、多くの自由民権運動家が出獄した。

 中岡慎太郎会館、坂本龍馬記念会館、自由民権記念館訪問を訪ねて、総括的に感じたことは、何事も起こすには、大きな志、行動力、資金力、そして一番大事なのは多くの志を同じくした仲間達、これらが揃えば今の地域、日本国、ひいては世界を変える力が湧き上がるのではないでしょうか?
 その為には、まず、自分自身が魅力を持ち同じ志を持った人達が何時も自分の回りに集まる人間に成ることが大事ではないだろうか!!
 自分を本気で変える事の大切さを今の日本人は考える時が来たのではないでしょうか!!

平成21年3月14日
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