第 173 号
“ 土佐の偉人を訪ねて ”
 2月14日(土)中岡慎太朗館、3月14日(土)坂本龍馬館、自由民権記念館を訪ねるとき・・・土佐から、どうして明治維新という日本の黎明期に坂本龍馬、中岡慎太朗などの偉人を傑出したのか。との疑問を持って記念館を訪ねた。
 中岡慎太郎は、現、高知県安芸郡北川村柏木という山奥の大庄屋・中岡家の長男として生まれ、3歳から読み書きの手習を学び、4歳になると地元、松林寺住職・弾定和尚(ぜんてんおしょう)から読書等の英才教育を受けた。
 その後7歳になると家から片道90分をかけて山道を登り、野友村の漢方医・島村策吾の塾入門し、“儒学”(「四書」〜大学、中庸、論語、孟子)を学び政治道徳や人間としてどう生きるべきかという事をによって身につけ、子どもの頃から英才教育を受けて実直な性格にあわせて将来における政治と社会に対する洞察力の基礎を身につけていたと考えられた。

 一方、坂本龍馬は、中岡慎太郎より3歳年上で
 ○1835年(天保6年)11月15日高知城下本町で生まれる。
 ○1846年12歳母・幸が亡、以後2番目の母・伊与に教育を受け伊与の最初の嫁ぎ先の川

 島家に出入りし、川島猪三郎から世界の話を聞く
 ○1848年14歳から日根野道場に入り武道を学ぶ。
 ○1853年19歳「小栗流和法事目録」一巻伝授後、江戸へ行き「北辰一刀流」千葉定吉道場

 入門(この頃アメリカペリー提督率いる黒船4隻が日本に来て開国を迫る)
 ○1858年24歳2回目江戸へ行き「北辰一刀流」一巻伝授
 ○1859年25歳西洋砲術家徳弘孝蔵に入門

等と坂本龍馬は、25歳までに武道を身につけ、以降、勝海舟、西郷隆盛、板垣退助、中岡慎太郎、小松帯刀、木戸孝允、ジョン万次郎、岩崎弥太郎、グラバー(イギリス・商人)等ら当時の日本を担うとされる代表的な歴史上の人物との交流を深める事が出来た。

 坂本龍馬は勝海舟に対して「西郷隆盛は、少しい叩けば少しく響き、大きく叩けば大きく響く。もし馬鹿なら大きな馬鹿で、利口なら大きな利口だろう」と西郷隆盛の人物像を報告すると、勝海舟から「坂本もなかなか鑑識のあるやつだよ」等と坂本龍馬の人物像の評価を得、また、板垣退助は、「天下に有志あり余り多く之と交わる、然れも度量の大きく、龍馬の度量や到底測るべからず」「豪放不埒(ごうほうふらち)な是れ龍馬なり」等と坂本龍馬の人物像を評している。
        

 このような中で坂本龍馬は、「亀山社中」「海援隊」「薩長同盟」に深く関わり、特に「薩長同盟」は、幕府に対向できる勢力を作り上げて内戦を避けるために幕府に大政奉還を迫り、公議によって物事を決める新しい世の中を作り上げた。
 坂本龍馬が暗殺されて以降、戊辰戦争を経て明治新政府が誕生し、坂本龍馬、中岡慎太郎らが成功させた「薩長同盟」(1867年)以降、大隈、西園寺総理大臣の二人を除くと1918年(大正7年)の平民宰相・原敬までの約50年間も効力を持ち続けるなど薩長同盟の歴史的意義の深さが見られた。

 明治維新前後の黎明期において土佐の土地から傑出した坂本龍馬、中岡慎太郎の両名の人物像や生い立ちを学ぶことにより土佐において両名を育てた維新土壌水準の高さが考えられた。
平成21年3月14日
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