第 206 号
自由民権記念館
 自由民権記念館の資料室に入ると、大きく「自由は土佐の山間より」と書かかれ、一見でこの地から近代日本の歴史に土佐の自由民権運動が大きな役割をはたしたのだと感じ取れる味のある文字でした。無論、日本最初の民主主義運動でした、高知市民の誇りでしょう。
 自由民権記念館は高知市市政100周年を記念に自由民権運動のシンボル施設として建てられた記念館です。

自由民権運動
 明治初期、藩閥専制政治に反対する土佐(高知)藩士の板垣退助(1837~1919=討幕運動に参加。維新後参議となったが、征韓論を主張し、敗れて下野。1881〔明治14〕年に自由党を結成、のち、第2次伊藤内閣・第1次大隈内閣の内相となる)・肥前(佐賀)藩士江藤新平(1834~1874=尊王攘夷運動に参加。維新後、司法卿となり、司法制度の近代化に努めたのち、参議。征韓論〔1873【明治6】年、西郷隆盛・板垣退助らが朝鮮の排日的鎖国主義を名目として、これを討つことを主張した論。同年欧米視察から戻った岩倉具視・木戸孝允・大久保利通らは内治優先を唱えてこれを退けた。以後征韓派は下野し、士族反乱や自由民権運動を展開する〕に組して敗れ、下野〔げや=官職を辞して民間に下ること〕、不平士族に推されて佐賀の乱を起こし、斬罪〔ざんざい=打ち首〕のうえ梟首〔きようしゅ=さらし首〕となる〔打ち首獄門〕。のち、大赦令によって罪名消滅)らによる人間は自由・平等であるとの基本思想に基づき、国会開設(参政権)・憲法制定・地租の軽減などを要求した政治運動を自由民権運動という。
 運動は、政府専制の弊害を批判し、民撰議院(国会)の一日も早い開設を要請して運動の端緒を開いた1874(明治7)年の民撰議院設立の建白書(意見書)に始まり1880(明治13)年3月に24府県114人の代表が集まり大阪の大融寺で結成された「国会期成同盟」を中心に組織的に取り組まれた。
 1880(明治13)年4月5日に政府が、警察の許可無く自由民権運動の集会や団体の結成を禁止するばかりか警察が集会を解散させる権限を有する集会条例を制定して弾圧に乗り出す中の同月17日には、「国会ヲ開設スル允可(いんか=許可)ヲ上願スル書」を(本文のあとに2府22県の請願人の代表97名の連署が続く)政府に提出した(政府は受け取りを拒否)ことを契機に全国的に広まった(請願書や建白書は140件、署名数は32万人にのぼった)。
 1881(明治14)年には、10年後の国会開設を約束する詔勅(しょうちょく=国会開設ノ勅諭)を引き出し、普通選挙による議会主義を目指すフランスの民権思想を取り入れた自由党(党首・板垣退助)やイギリスの立憲政治を模倣した立憲改進党(党首・大隈重信)などの政党結成へと進み、一定の成果を上げるが、政府の弾圧強化と運動内部の対立、また、板垣が東海地方遊説中の1883年4月6日、岐阜県厚見郡富茂登村(あつみぐんふもとむら=現・岐阜市)にある神道中教院において暴漢に襲われ負傷する(この事件は衝撃的なニュースとして全国を席捲した。なお、有名な「板垣死すとも自由は死せず」という言葉は、この時発せられた=板垣遭難の図)ほか、福島事件(1882年11月)や加波山事件(1884年10月)・1万人の農民が決起した秩父事件(1884年10月)など激化事件が相つぐなかで次第に衰えた(1884〔明治17〕年10月自由党解党。立憲改進党も活動停止)。
 しかし国会開設が近づくと、旧自由党の星亨(1850~1901=舌禍事件、出版条例違反で2度入獄。のち衆議院議長。政友会結成に参加し、第4次伊藤内閣の逓相となるが、東京市の疑獄事件で辞職。その後も政友会院内総務として権勢をふるったが、01〔明治31〕年に暗殺された)らは1886(明治19)年民権派の再結集を呼びかけ(大同団結運動)、翌87年(明治20)年、「租税の軽減」「外交失策の挽回」「言論集会の自由」の三つの要求を掲げた「三大事件建白運動」(「三大事件建白書」送達願)が展開され、多数の活動家が上京して政府に対して陳情請願活動が繰り広げられる事態となった。

 これに対して政府は同年(87年)12月、これらの活動家達を東京から締め出すため「保安条例」を発し(1898〔明治31〕年廃止)、(3日以内に)東京(皇居)から3里(12キロ)以外に追放した(退去命令書)。こうした弾圧政策により運動は次第に鎮圧されるのであった。そして1889(明治22)年2月11日、大日本帝国(明治)憲法と衆議院議員選挙法(定数300、原則小選挙区制、選挙権資格・直接国税15円以上で25歳以上)及び貴族院令が発布され、東京をはじめ各地で盛大な祝典が挙行された。ここに立憲政治の基礎が敷かれたのであったが、同時に大赦(たいしゃ)令公布され、多くの自由民権運動家が出獄した。

 自由民権記念館はじめ土佐の勤皇の志士達の偉人館めぐりを多くかさねて来たが、何故、土佐からこの様に多く日本を変える志士達が多く生まれたか?方や太平洋、方や山に囲まれ、閉鎖されたと言っても良い地域から、日本とゆう国が大きく変わる時代を作れたか、私は今だに謎で有る。
 只、言えることは人脈の大切さ、そして、何事も起こすには、大きな志、行動力、資金力、そして一番大事なのは多くの志を同じくした仲間達、これらが揃えば今の地域、日本国、ひいては世界を変える力が湧き上がるのではないでしょうか?
 その為には、まず、自分自身が魅力を持ち同じ志を持った人達が何時も自分の回りに集まる人間に成ることが大事ではないだろうか!!
 自分を本気で変える事の大切さを今の日本人は考える時が来たのではないでしょうか!!
平成23年11月26日
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