第 210 号
村上水軍、大三島神社訪問
 2月11日、朝9時30分に集合し、一路瀬戸内海に浮かぶ、大島に出かけました。目的は村上水軍、大三島神社の2つの資料館の見学から見える、当時の時代背景、又、何故、瀬戸内海の小さな島に日本1の水軍が出来上がり、日本で5本の指に入る、神社が出来たのかを、自分の目で見て自分なりに、研究することが目的です。

 先ずは、村上水軍の資料館に行き、どの様な背景で水軍が出来上がったかの勉強です。
       

 南北朝から戦国時代にかけて瀬戸内海で活躍した一族である。俗に三島村上氏と呼ばれ、能島・来島・因島の3家からなり、互いに強い同族意識を持っていた。当時は瀬戸内海に多くの海賊が居たが、中でも強かったのが、村上水軍です、元々、村上水軍は上記に書いている様に、能島家・来島家・因島家の強い絆で、瀬戸内海の海賊を3家で力を合わせ、村上の配下に治め、瀬戸内海最強の水軍が出来たと云われています。
 戦国時代になると、村上氏は、その強力な海の武力を背景に、瀬戸内海の広い地域を支配し、国内の軍事・政治や海運の動向をも左右した。この後、来島城を本拠とする来島村上氏は早くから守護大名河野氏と結びつき、因島村上氏は大内氏のち毛利氏の有力な水軍となった。そして、現在の宮窪に本拠を構えた能島村上氏は3氏の中でもっとも独立性が高く、村上武吉は、どの大名にも臣従せず、独自の姿勢を貫いた。
 武吉の時代に全盛を謳歌する能島村上氏は、西は九州から東は塩飽諸島に至る海上交通を掌握していた。戦時には、小早船を巧みに操り、火薬を用いた戦闘を得意とした。その一方で、平時には瀬戸内海の水先案内、海上警固、海上運輸など、海の安全や交易・流通を担う重要な役割も果たしたのである。戦国時代が終わり、豊臣の時代が来ると共に、村上水軍の役目も終わり、次第に消滅していったと思われます。村上水軍資料館を後に大山祇神社に向かいました。

       

 大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)は、瀬戸内海瀬戸の大三島大に位置する神社。大山積神を祭神とし、全の山祇神社、三島神社の本社である。国宝8件、の重要文化財75件(2008年現在)を有し、天然記念物「大山祇神社のクスノキ群」がある。皇室からも厚く信奉されており、境には昭和天皇の研究を展示した海事博物館が併設されている。
 御祭神大山積大神は天照大神の兄神で山の神々の親神に当り(古事記・日本書紀)天孫瓊々杵尊の皇妃となられた木花開耶姫命の父神にあたる日本民族の祖神として、和多志大神(伊豫國風土記)と申し上げる。海上安全の守護神である。
 地神・海神兼備の大霊神として日本の国土全体を守護し給う神であるところから古代より日本総鎮守と尊称され朝廷を初め国民の崇敬は各時代を通して篤く中世は四社詣、五社詣の中心となり、平安時代既に市が立ち現在に続いている。
 御分社は、全国に10,000余社祀られ、延喜式名神大社に列せられ伊予国一の宮に定められた。
 明治以降は国幣大社に列せられ四国で唯一の大社として尊崇されている。神社の国宝館、紫陽殿、海事博物館等は一度皆さんも行ってみては如何ですか?時間を掛けて行く価値は有ると思います!!
平成24年2月11日
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