第 217 号 |
初めての偉人館巡り『中岡慎太郎館』 訪問 |
6/30(土)初めての偉人館巡り、記念すべき初回の訪問先は「中岡慎太郎館」でした。 中岡慎太郎!?…時々観ていたNHKの「龍馬伝」に出てきた人だな。近江屋で龍馬と一緒に暗殺された人。ということしか予備知識のないままに訪問した私は、見学してかなりの衝撃を受けました。 中岡慎太郎は1838(天保9)年に北川郷の大庄屋の跡取りとして生まれ1867(慶応3)年に近江屋で坂本龍馬と共に襲撃され、わずか29歳7ヵ月でその生涯に幕を閉じました。 慎太郎は幼少の頃より、文武両道に励んでいました。驚くことに7歳では、片道90分の山道を歩き島村塾に通っています。14歳で先生の代理で授業をしていました。このことから、優秀というだけでなく、勉学への情熱や勇気を感じました。17歳の頃に武市半平太や、のちに土佐勤王党などの中心となる人物と出会い、天命であったと思われる、大道に目覚めます。20歳の頃父親に代わり庄屋の仕事をします。この頃の逸話があります。 安政の大地震により北川郷は、大きな被害を受け飢饉に合いました。食糧難の農民のため、お役人の屋敷の門前に座り込み一夜を明かし、米蔵の米を分けてもらうよう陳情しました。「民、百姓を除いて君主はない。いわんや民の利益を度外視して国法のある理由はない。」とお役人をにらみつけたそうです。私はこの言葉に、かなりの決意・情熱・勇気を感じました。現地現場主義のお手本だと感じました。 私が更に衝撃を受けたことは、薩長同盟の成立についてです。歴史の授業やテレビドラマなどの情報で、坂本龍馬が立役者だと思っていました。しかし、中岡慎太郎が根気強く両藩の人たちと話し合い、薩長同盟の成立が成し遂げられたことを知りました。坂本龍馬たちと共に力を合わせたからこそ実現できたことと想像しますが、真の功労者は中岡慎太郎であったと、私の中でのイメージが変わりました。 激動の幕末期に、身分を捨て、家族を捨て、家を捨て、故郷を捨て、名を変え、死を賭してまで、維新実現に命を燃やした慎太郎。己の信念を曲げず、幼少より培った知識・知恵をもって活用し、薩長連合の実現、公家同士の協力体制の構築などを成し遂げ、大道を駆け抜けた彼の情熱、夢、喜怒哀楽を感じました。塾で学んでいる“志”とは、こういうことだと感じました。 私達が見学している間に20名ほどの女性が訪れました。歴史ブーム歴女効果?でしょうか。熟年女性グループ、若い女性グループ、母娘(おやこ)で来られている方がいらっしゃいました。どのような経緯でクローズアップされたのでしょうか。歴史に埋もれている偉人を訪ねているこの方たちは、凄い!と思いました。今後、偉人館巡りで出会った方たちと談義できるように学習したいと思います。中岡慎太郎先生の偉大さを、まだまだ、ほんの一端しか感じられていないと思います。塾頭より訪問する度に、新しい発見や感動が得られると伺いました。そうなれるように、志を持って日々の行動をできるようになりたいと思います。 車中で、岩崎弥太郎記念館が無い、地元の偉人の記念館が無いことの話題が出ました。これまでそのようなことを考えたことがありませんでした。しかし、話をしているうちに記念館が無いことは、おかしいと感じました。偉人から学ぶことが多いと思います。歴史的人物や近代国家の功労者の記念館が必要であることを、発信していけるよう学んでいきたいと思います。 私の娘達に偉人の記録を見せてあげよう、一緒に学びたいと思いました。今後、家族でも偉人館巡りの機会を作ってみようと思います。 四国=志国、四国は志のある国と、他の地域の人に連想してもらえるように、四国政経塾で勉強会や偉人館巡りを通して学習し、志を持ち、育み、和を広げてゆきたいと思います。 まずは、自分を変え、身近な家庭を変える行動から始めようと思います。 |
平成24年6月30日 |
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