第 218 号
中岡慎太郎館 訪問
 平成6月30日(日)中岡慎太郎会館は、高知県安芸郡北川村でかなりの田舎でした。川には綺麗な水が流れ、静かで自然豊かな山間の場所に中岡慎太郎館があります。この広大な自然の中で、慎太郎は何を考え、何に突き進んで行ったのでしょうか?
 中岡慎太郎という人物を名前だけは知っていましたがこの偉人館めぐりで慎太郎という人物を少しでも感じられると思い参加させて頂きました。
 中岡新太郎会館に入っていろいろと見ていると、慎太郎の父親は慎太郎が将来立派な人間になってもらいたいと手習いを教え、4歳では松林寺で読み書きを学び7歳では片道90分の山道(向学の道)を歩き安芸郡野友村の漢方医・島村策吾に四書を学ぶ勤勉さで14歳では島村塾の代講を務める程の勉強家だったそうです。それと同時に、20mの断崖から川へと飛び込む勇気と大胆さを持つ勇敢な男児でした、17歳では、野田学館に通い、そこで武市半平太や間崎滄浪と出会い世の中のことや学問を学んだことが新太郎自身を大きく成長させたようです。
 いろいろと見ていると「肉を切らせて、身分を断つ」と書いてある文章の中で「民、百姓を除いて君主はない、いわんや民の利益を度外視して国法のある理由はない」と言った言葉が16歳だと塾頭に聞き新太郎の若さからくる熱き思い、村人に対する熱い思いが中岡新太郎の活動の原点になったと思いました。20~26歳で大庄屋見習いの時百姓の立場を離解し、藩の役人と難しい交渉にあたり生活を守り、21歳の時土佐の大地震と安政コロリの流行で人々の困窮がひどく慎太郎は、自家の土地を担保に富豪から米麦を借り入れし足りず近村の庄屋に図って藩に800両借りてきて人々を驚かせサツマイモ500貫を救済にあてたが足りず高知城へ出向き、国家老桐間蔵人の役宅前で一夜座り込み、家老へ直接陳情に成功し、貯蔵米の官倉をひらかせ救済の許可まで行うなど村人を助けたい一所懸命さが伺え感銘しました。28歳では、時勢論を書き幕府の政治に疑問を持ち、これからの日本は人々を大切にし、個々の能力を伸ばし、外国と対等に付き合える新しい国家を作るべきだとこの時代の28歳で先見の目を持っていた慎太郎の考えは愛国心そのものだと考えさせられました。そして、慎太郎は、険悪な長州藩と薩摩藩を説得し、両藩に劇的な同盟である「薩長同盟」を結ばせた発案者は竜馬ではなく、慎太郎だったという新事実に脅かされました。この「薩長同盟」は世界が大きく動いたといわれるほどの同盟でした。「薩長同盟」が締結された時、同席していたのが竜馬だった為、結果的には竜馬が同盟を結ばせたのは間違いありませんが、しかし薩摩に、長州に何度も足を運んで、両藩を説得したのは間違いなく、慎太郎でした。

       

 中岡の功績が竜馬に隠れてあまり知られていませがしかし、自分の命を顧みず維新のために行動した慎太郎の心と心をつなぐ命の対話には感動しました。
 今回の偉人館巡りで得たものには、数え切れないものがあります。まずは自分自身が出来ること「全ては行動をおこすこと」という教えを実行していきたいと思います。
平成24年6月30日
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