第 22 号
中岡慎太郎館・龍馬歴史館訪問
 平成15年7月27日(日)高知県安芸郡北川村・香美郡野市方面訪問する。旧土佐北街道と平行に高知自動車道があるがその高速道路を南に下り、南国で高速を下り55号線をひたすら東へ走る。
 今月の勉強会は、坂本龍馬の陰に隠れてとにかく真価を知られない土佐の志士『中岡慎太郎』である。薩長連合の推進者として考えると龍馬より慎太郎の方が熱心であり功績を上げた人といえる。
 土佐藩の郷士の家に生まれ龍馬は裕福で、商人であるのに対し慎太郎は草深い山林の百姓をみながら成長する。それだけに農村の事情にたけていた人であろう。苦しさを肌身にしみる思いで育った人である。彼が幼い頃から学問をして物事の本質を知るようになればなるほど、世の中の矛盾を考える機会が多かったといえる。
 学問の指導は、隣村の漢方医島村岱作である。7歳の頃から急峻な山々に囲まれた小さな村落から高い峠を越えて片道90分の道のりを一日も休むことなく通う。14歳で、島村塾で代講したほどの俊才ぶり。  一方龍馬は、泣き虫・寝小便たれ・おちこぼれであり慎太郎とは大変違う。
 15歳で、間崎鉄馬につき南学の勉強、さらに高知へでて 間崎の塾へ通い また武市瑞山に師事、剣道を学ぶという武士らしい教育を受ける。現代で言えば小学校の頃から一貫して秀才コースを歩んできたといえよう。

 19歳で、武市瑞山と江戸に出て鏡新明知流桃井春蔵の道場へ通い、諸国の志士との交遊も生まれ広く日本を見ることが出来た。
 20歳の時、父が倒れ帰郷し庄屋の跡を継ぎ、大庄屋見習いをする。
 ペリー来航以降、時代の波が揺れて通商条約、将軍継嗣問題、井伊大老の横死など 不安の渦に巻き込まれる。時勢に目覚めた志士は動きだす。慎太郎が参加した「土佐勤王党」もこの時勢に反映したもので坂本龍馬も参加している。
 20〜26歳で大庄屋見習いの時百姓の立場を離解し 藩の役人と難しい交渉にあたり生活を守った。
 例えば、21歳の時土佐の大地震と安政コロリの流行で人々の困窮がひどく慎太郎は、自家の土地を担保に富豪から米麦を借り入れしたが足りず近村の庄屋に図って藩に800両借りてきて人々を驚かせたり、サツマイモ500貫を救済にあてたが足りず高知城へ出向き、国家老桐間蔵人の役宅前で一夜座り込み、家老へ直接陳情に成功し貯蔵米の官倉をひらかせ救済の許可まで行うなど一所懸命さが伺える。
 勤王党が結成されると、土佐の田舎をでて広い世界に飛び出しはばたきたい欲求、人のために尽くす思いが強くなる。慎太郎が京都へ行き、数多くの他藩の志士と交流する喜びを感じ脱藩同様にして土佐を出たが藩主容堂を護衛する隊の結成という口実まで生まれ京都・江戸の旅を楽しむ。このころ長州藩、久坂玄瑞、高杉晋作、尊皇攘夷急進派と密接になり奔走がはじまる。
 長州藩が功を急ぐあまり七卿を伴って京都へ退去しなければならなったとき、久坂・高杉の率いる長州を救うべく土佐を脱藩。忠勇隊隊長となり三条実美ら公卿に近侍、五卿の太宰府移転について待遇条件を西郷隆盛と交渉。その後、薩摩・長州との関係の和解・同盟を目指す。慶応元年(1865年)5月以降郷党の坂本龍馬と共に行動開始。慎太郎は『時勢論』のなかで 今後の日本の行く末を予言している。
 また、諸藩の志士らに倒幕を呼びかる。詳細は省くが慶応2年1月に薩長同盟が成立する迄の間は、犬猿の仲の両藩を説き伏せたのは中岡慎太郎の私利私欲のない毅然としたこの男が目に見えないところで行動した結果であろう。この後、陸援隊結成、薩土密約、近江屋事件と続くが享年30歳の若さで暗殺。
 今から150年前に日本の行く末を考え、人のために尽くし日本を奔走した志士が日本を動かした。
 慎太郎は脱藩浪士という不利な立場から長州に利用された事はゆがめないことだが慎太郎自身もそれを理解した上、決して長州のためだけと思わず国家、国民の為に働いているという姿勢があらゆるところででている。龍馬は、亀山社中、海援隊を結成し無血クーデターをねらい、慎太郎は、戦なしでは倒幕はありえないと考えていた事を知り 志しの強さは慎太郎のほうが強かったのでは考えさせられた。
 今の世の中幕末動乱によくたとえられるが、要は自分の力だけでなく目的は同じだがお互い様々な手段・道具をもっており多角的な視野が生まれ、同じ志を持つものが協力して目的を達成でき得る。

 この勉強会に出席して、自分がどんな環境にいても、自由な発想をもち活動していく行動力、丹念に推し進めていく信念を常に持ち続けなければならないことを再度認識いたしました。

 8/9,10は京都・霊山記念館訪問ですが、非常に楽しみです。
平成15年7月27日
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