第 223 号
高知県の偉人館・資料館巡り
 前回の中岡慎太郎会館に引き続き土佐の偉人達と県民性を知る勉強会となりました。前回訪問した中岡新太郎館で中岡新太郎の偉大さを知り、今回は協力し薩長同盟を成立させた坂本龍馬記念館に訪問しました。
 龍馬一人の手によって、薩長同盟されたと思われ龍馬だけが注目されていますが、東奔西走し 、薩摩、長州の意見をよく聞き、お互いの利益を元に和解を成立させた慎太郎の功績は非常に大きく、龍馬、慎太郎がいなければ成立しなかったと思います。新太郎の幼少時代は4歳では松林寺で読み書きを学び7歳では片道90分の山道(向学の道)を歩き安芸郡野友村の漢方医・島村策吾に四書を学ぶ勤勉さで14歳では島村塾の代講を務め遊びの中では20mの断崖から川へと飛び込む勇気と大胆さを持つ勇敢な男児で、17歳で野田学館に通い、そこで武市半平太や間崎滄浪と出会い世の中のことや学問を学んだ行動派(国政)で坂本龍馬は、1835年(天保6年)11月15日に、高知城に近い本庁筋に生まれ、子供の頃は泣いてばかりの、「鼻たれの泣き虫」などと友達にからかわれ、12歳の時に小高坂の楠山塾に入りましたが、直ぐにやめてしまう龍馬に、3歳年上の姉乙女(オトメ)が、龍馬に強くなってもらいたいと、剣術などを教えたそうです。勉強嫌いの龍馬でしたが剣術は賢明に励み、14歳のとき、小栗流の日根野道場に入門し、19歳の時は、江戸にて千葉定吉道場に入門し、北辰一刀流長刀兵法目録を授かり、剣術の腕を上げました。土佐に帰った龍馬は、ペリー来航で開国か攘夷か騒がれるなか、土佐藩の役人・河田小龍を訪ね、航海術と海運業の必要性を教えられ、海の向こうに大きく目を開くことを教えられた龍馬は慎太郎と少し違う行動派(経済)で幼少期からの人間形成の違いが垣間見られました。あくまで自己解釈ですが龍馬はすごく柔軟性に飛んだ人物だったと思います。学問は嫌いでも、必要な情報や勉強だけは、吸収していたのだと思いました。

 龍馬記念館を後にし、次に訪れたのが、自由民権記念館でした。
 自由民権記念会館では、高知県民の県民性や日本初の民主主義運動の歴史を学ぶことが出来ました。1873年板垣退助の参議辞職から、翌74年(明治7年)1月12日に愛国公党を設立して納税と民の参政権を要求した運動は、幾度も弾圧を受け、第1回衆議院議員総選挙は明治27年7月1日で、実に20年間に渡り自由民権運動が繰り返されたと知り、また運動の資金源ともなる立志社を創立し、新聞や民権歌謡、遊説などを行い、民衆に広く根強く訴え続けた粘り強い運動が繰り広げられ、資料の中で植木枝盛の遺稿「無天雑録」の中に「未来が其の胸中に在る者、之を青年と云ふ」と記していますが、自由民権運動はまさに近代日本の青春でした。しかし、青年の理想は実現せず、日本は軍事強国への道を歩み、アジア諸国を侵略し甚大な被害を与え、敗戦によって再び新しい時代が到来し、民権派の憲法草案が生かされた日本国憲法が誕生しました。自由民権運動が目指した民主主義日本の実現は、日本国憲法の理念であり、私達の理想です。自由民権運動は歴史に学び歴史を創造するために、豊かで貴重な経験を残しています。政治は国の為にあり、国民の為にあるものですが、今の政治のあり方については、当然政治家の資質も問われますが、選ぶ側の国民にもその意識が無くては良い政治家を送り出すことは出来ない。つまり選ばれる側にも選ぶ側にも、国を思う気持ちが無ければ本当の良い国づくりはできないと思うのです。今の政治を見ていると、メディアの影響もありますが、全てがそうだとは思いません、政治家も国民も互いに批評や批判することばかりで、一人一人が役割を果たす意識が低下し愛国心や助け合い精神が無くなってしまっているように思います。難しく考えないで、家族を大切に思い、友達や他人を思い、人に親切を心がけるように、自分だけよければと考えるのではなく、人も自分も幸せになれるように、話し合うことが大切だと思いました。
平成24年8月25日
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