第 237 号
広島平和記念資料館・平和記念公園訪問
 1123日(金)広島記念資料館・平和記念公園を訪問しました。
 訪問のきっかけは、113日、上村珠美さんが来塾されお話をされている中で、原爆ドームの話がありました。その話の中で、平和記念資料館を訪問しようと言う話になり、早々日程が決まり訪問する事となりました。
 私自身の記憶に、ケース越しに焼けこげた衣類や遺品等の記憶があるが、資料館に行った事があるのか無いのか・・・?おそらく、その記憶はTVや本による記憶だったと資料館や記念公園を訪問して分かりました。原爆の恐ろしさは自分が体験せずとも、TVや映画、そして戦争の悲劇等、画面を通してですが解っていたはずですが、初めて資料館に行き、その恐ろしさを知りました。

 原子爆弾の開発は、第二次世界大戦が始まった1939年(昭和14年)アメリカは原爆の研究に乗り出した。1942年(昭和17年)8月には「マンハッタン計画」と名付けられた原爆製造計画に着手、1945年(昭和20年)716日、原爆実験に成功しました。そして1945年(昭和20年)春から、アメリカは投下目標と市の検討を始めた。なぜ日本に投下すことを決めたのか、日本の戦況が圧倒的に不利な中、アメリカは戦争終結手段として、日本本土上陸作戦、ソ連への対日参戦の要請、天皇制存続の保証、原爆の使用という選択肢があった。こうした状況の下、原爆投下により戦争を終結する事ができれば、戦後ソ連の影響力が広がるのを避けられ、また膨大な経費を使った原爆開発を国内向けに正当化できるとも考えた。そして、なぜ広島に投下したのか、アメリカは投下目標を原爆の効果を正確に測定できるよう、直径3マイル(約4.8km)以上の市街地を持つ都市の中から選び、その都市への空襲を禁止した。725日に目標都市の広島・小倉・新潟・長崎のいずれかに対する投下命令を下しました。広島を第1目標とする命令を出したのは、82日。なぜ、広島を第1目標としたのか、目標都市の中で唯一、連合国軍の輔慮収容所がないと思っていたため、広島の運命は決まり、1945年(昭和20年)86日、広島の天気は晴れ、午前815分、広島は世界で初めて原子爆弾による被害を受けました。原子爆弾は、市街地の上空約600mで目もくらむ閃光を放ってさく裂し、爆心地から2kmにおよぶ市街地の建物が跡形もなく破壊され、爆風や熱線などによって多くの人々の生命が奪われました。かろうじて生き残った人々も、焼け焦げて血みどろになったボロボロの衣服をわずかに身にまとい、瓦れきの街を逃げ惑った。また、心と体に大きな痛手を受け多くの被害者が今もなお苦しんでいる。
 原子爆弾は、ウランやプルトニウムが核分裂する時に発生するエネルギーを兵器として利用したもの、通常の爆薬に比べるとはるかに大きな破壊力を持っています。さらに、核分裂の際に発生するガンマ線や中性子線などの放射線は、長い期間にわたり人体に深刻な障害を与える。広島に投下された原爆は長さ約3m、重さ約3t、開発当初の設計よりも短くしたためリトル・ボーイ(少年)と呼ばれていました。約50kgのウラン235が詰められていたとされていますが、このうちの1kgにも満たないものが瞬間的に核分裂し、高性能爆薬の16千トン分に相当するエネルギーを放出しました。その内訳は、爆薬(衝撃波)が50%、熱線が35%、放射線が15%、これらが複雑にからみあって大きな被害を引き起こしました。通常の爆弾では絶対おこらない放射線の影響によって、人体に大きな障害が加えられた。特に、爆心地から1km以内にいた人は致命的な影響を受け、多くは数日のうちに死亡。被爆直後から短期間に現れた急性障害は、発熱・はきけ・下痢・出血・脱毛・全身のけだるさなど、さまざまな症状をひきおこし多くの人が亡くなった。(一応おさまったされる1945年(昭和20年)12月末までに約14万人の尊い命が失われた)さらに、急性障害の後に発症する後障害として、ケロイドや白血病、ガンなどの病気が多くの被爆者を苦しめています。  ※説明、資料館パンフレット参考

 資料館に被爆直後の撮影された写真が公開されていますが、撮影された方の著には「1枚目のシャッターを切るまでに30分はためらいました。1枚シャッターを切ると、不思議に心が落ち着き、近づいて撮ろうと思うようになりました。10秒ほど近づき2枚目を撮ろうと、ファインダーを覗いてみるとあまりにもむごく、涙でファインダーが曇りました」と書かれていた。そして、伸ちゃんの三輪車や焼け焦げた学生服・帽子、弁当箱や水筒、下駄や子供のワンピース、といった数々の遺品、遺品にはそれぞれに爆弾を投下される直前、何をしていて誰のものかそれぞれに説明が書かれています。

 数多くある中から一点だけ・・・。
『伸ちゃんの三輪車』
 寄贈者=鉄谷信男氏 / 被爆場所=東白島町 / 爆心地からの距離=1,500m
 鉄谷信男さんの長男伸一ちゃん(当時311か月)は、東白島町の自宅前で、三輪車に乗って遊んでいるときに被爆しました。全身に火傷を負い、「水、水・・・」とうめきながらその夜亡くなった。
 翌日、自宅の焼け跡で長女路子ちゃん(当時7)、次女洋子ちゃん(当時1)の遺骨を見つけた信男さんは、伸一ちゃんの遺体を焼く気になれず、一緒に遊んでいて死んだ近所の女の子と手をつながせ、焼け焦げた三輪車と共に庭に葬りました。その後、被爆40年目に墓所に移す決心をして堀り起こし、葬式をしました。
と書かれています。

 数多く展示されている遺品、説明に目を通していると悲しく、胸が苦しく・・・。資料館そして平和記念公園を訪れ思った事は、もちろん人の手で開発された原子爆弾によって大勢の方々の尊い命が失われた悲しみは、誰もが同じ気持ちだと思います。
 災害が起こってしまった後に言っても始まりません。しかし、今騒がれている、原発の問題、東日本大震災によって起こった事ですが、原子爆弾によって大勢の尊い命を失い、その後、世界が平和を訴えてきたにも関わらず、なぜ原子力発電所を造ったのか、原発ができるまでの電源力は、火力発電・水力発電だった。しかし、原発をつくる際、あらゆる面でどんな災難が降りかかろうと耐えられるように、発明されたのだと思われるが、どんな物にも、絶対という事はあり得ない、原子力発電は、核分裂によるエネルギーを利用して発電する。通常は、核分裂によってできた放射性物質は厳重に閉じ込められているが、東京電力福島第一原子力発電所では、大規模な地震と津波で冷却装置が壊れ、発生した水素が爆発。核燃料自体の爆発はなかったが、爆発で建物などが壊れ、本来は原子炉の中に閉じ込められているはずの放射性物質が飛び散り、空気や水、大地などを汚染。このように、絶対という事はあり得ません。この事により、世界中で脱原発と騒ぎ立てています。東日本の被害を聞き、また報道などで知り、原発には反対です。果して同じような災害が起きた時、絶対に大丈夫なのでしょうか。原発をすべて停止したところで解決はしない、原発を停止しても、プルトニウムなどは永遠に冷やし続けなければなりません。同じような事が起きれば、その災害から守れる事が出来るのでしょうか? 私の住んでいる県にも伊方原子力発電所があります。今回の資料館で原子爆弾の恐ろしさを知り、改めて東日本大震災の事を考えると、これから先、原発を停止するだけでよいのか如何か、とても疑問です。
 原発を止め自然エネルギーに変え、自然エネルギーでまかなえる電力が出来るプロセスが出来あがり、原発は止めていくべきと思います。だけど、一つの原発を止めるには費用が約800億円、期間は20年という事を聞きました。災害は待ってくれません、次の時代の人達の為にも、早急に取りかかるべきではないだろうかと思います。

 今回、上村珠美さんと知り合うことがなかったら、ただ放射線の恐ろしさのため、原発は反対と考えていたでしょう。上村さんと出会い、広島平和記念資料館・平和記念公園訪問する事になった事で、今まで以上に原発問題に対し向き合うことが出来ました。

 最後になりましたが、広島訪問中、上村さんご夫婦に案内をして頂き大変お世話になりました。有難う御座いました。
平成24年11月23日
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