第 25 号
吉田松陰を訪ねて

 平成15年8月9・10日、京都・霊山記念館へ来訪する予定でしたが、台風9号通過により急遽変更、山口・萩に行くことになる。
 松山道 ⇒ 高松道 ⇒ 瀬戸大橋 ⇒ 山陽道 ⇒ 山口道を走り萩往還有料道路にある吉田松陰記念館で15時頃休憩。萩城城下町にある江戸屋横丁、伊勢屋横丁、菊屋横丁には16時頃到着し散楽する。
 萩といえば関が原合戦以降、広島を追われ乏しい財力で城等築城していく。その時、最初に訪問した江戸屋横丁にある円政寺も毛利氏とともに萩へ移転したものである。伊藤博文が11歳のころ住職から読み書きを習い、また奇兵隊を結成した高杉晋作も少年時代よくここで遊んだらしいが、間違いなく松の木によじ登ったり、用水路で水遊びをしたと思う。
 次は、青木周すけ邸へ行く。蘭学医で毛利敬親の侍医、明倫館の医学所でも教えていたとのこと。高杉晋作が疱瘡になったとき診てもらったりしている。弟研蔵は明治天皇の侍医、養子の周蔵は明治政府の外務大臣という家系。宇和町の卯之町長州藩の陸軍隊長として活躍する村田蔵六もここにいた。続いて御成道を西へ行くと萩藩御用達の豪商であった菊屋家屋敷へ行く。敷居を跨ぐと立派な和室番台、電話、伊藤博文が寄贈した時計、有栖川親王が来萩された際使用した萩焼の品々、手入れされた庭、大きな手水鉢、釜場、奥には土蔵があり当時の繁栄ぶりをおもわせる。菊屋横丁(左写真)を南へ下ると東側の土塀、なまこ壁の門、土蔵など段々に並びタイムスリップしたような気を興させる。その後、萩史料館へ行き長州藩の志士ゆかりの遺物、書簡、武具、写真等の展示品を観る。
 17時頃ホテルチェックインし野山獄・岩倉獄へ行く。士分・庶民と身分で分けられ吉田松陰、金子重輔等密航したとき投獄されたところである。

笠山から見る萩諸島



 2日目は、朝5時に目が覚め日本一小さい噴火口のある笠山・ツバキの群生林・虎が崎・明神池へ行き、群青色の日本海に浮かぶ萩諸島を眺め景色を満喫する。その後、道の駅・しーまーと萩の北にある市場によりその後、吉田松陰の誕生地でもあり朝夕ながめたであろう団子岩へ行く。萩市内全望でき指月山のアーチの輪郭を望める。広場には松蔭と金子重輔の銅像もある。



松蔭誕生地から見る萩市内 松蔭と金子重輔

 7時頃萩藩の藩校明倫館跡の有備館(左写真)・観徳門をみ御成道を西へつきあたったところに田中義一の銅像があり、また堀内方面では萩高校のグランドは土塀で囲まれ、そして、迷路のように戦闘を想定してつくられた鍵曲・T字路が各所にみられた。口羽家の鍵曲がりは、道路を舗装しておらず当時の面影が残っている。萩城跡から菊が浜へ白砂青松の続く海岸を通りホテルの到着したのは9時頃であり、勝手な行動をとった私が怒られたのは云うまでもない。

観 徳 門 口羽家の鍵曲 土塀の間に挟んだ瓦

 朝食後、今回の維新巡りの目的地である吉田松陰歴史館・松陰神社・松下村塾へ10時頃到着。吉田松陰は、家族愛の満ちた環境で育ち青年時代までは、藩主の前で兵学を講じたり、明倫館で家学を授けたりする。24歳でペリーが来航するまでの間、九州・平戸の小鹿家、江戸では佐久間象山等と出会いさらに東北へ脱藩の罪を犯してまでも遊歴する。

・ 1853年 海外事情を知りたいがために密航を決意。
1854年 ペリーと交渉するが失敗。しかし先駆者としての意義は大きい。


 日本の危機を幕府等は知っていたはずだが行動できず幕藩体制も乱れていた時、彼は、他国を知ろうと実践行動するが、交渉は失敗し結局獄中へ行くことになる。恐らく心の中は怒りを感じ続けたのだと思う。

  野山獄では、一心不乱に読書と著述をする傍ら教育者としての本領を発揮する。なんと同獄の囚人達を感化し獄中で講学研鑽の会を開く。俳句、絵画、習字、大工等得意とする囚人にいろいろ教わったり彼は、孟子講読。実におかしい光景だが人間がなぜ生きているのかを考えさせられる場面だ。

・ 1855年 獄舎をでて生家の杉家に蟄居させられる
・ 1857年 小屋を補修し松下村塾を開く。
・ 1858年 日米修好通商条約が結ばれると反幕府に踏み切る。
        京都を弾圧した老中間部詮勝の要撃を画策。
        烈しい政治活動に乗り出すが長州藩により再び野山獄へ

1859年 10月27日 江戸伝馬町獄で斬首。享年30歳。

松 下 村 塾 増築された松下村塾

 幕末の志士・思想家・教育者として今世紀にまで名に残る彼の魅力は何だろうか?彼は,28歳の時、叔父の玉木文之進が1842年に自宅で私塾をひらいたのを引き継ぎ松下村塾を運営する。身分・階級にとらわれず門下生を取り入れ教育方法は、マンツーマン方式で講義を行い塾生1人1人の個性を生かした教育を行う。吉田松陰の教育姿勢で「士規七則」と呼ばれる教えがある。その内容は、「志をたてること これがすべての出発点である。そして交友する友を選び自ら仁義の実践の助けをするとともに書を読み、古今の聖賢の教えを考え身につけること」松陰のいう志は、尊皇攘夷の実行であるが世の中を動かす人間になることを目標にしていた。人間を鍛える教育を理想とし「内省」という原則を大事にしていた。私は一日に三度わが身を振り返る。

  一つ、人のために真心をこめて善処しなかったのではないか?
 一つ、友と交友しながら、その友の信頼を裏切ることはしなっかたか?

  一つ、習ったことを復習せず納得しないまま人へ伝えなかったか?

  この三つの中にも松陰の個性の観察・洞察力を養う教育を重視していたのかがわかる。

  現在の教育は、競争目的が受験となっており人を受験で評価し、また、利益追求にたより生徒の人数を確保するだけで志の有る人間を育てようとはしない。短所と長所を巧みに使おうともしない画一的な教育である。一方、適塾で知られる緒方洪庵は集団の中で競って学問を高めていく自分との戦い、我慢強さを養う教育。師は洪庵でなく塾生である。試験進級において塾生の自主性を高め先輩・塾生の指導を受けながら高めていきどちらもすばらしい塾といえる。
  松陰が松下村塾で教えたのは僅か2年余りで 門下生 久坂玄瑞・高杉晋作・吉田稔麿・入江九一・前原一誠・伊藤博文・井上馨・品川弥二郎・山縣有朋など維新の原動力となっていく人が多いのも知識でなく知恵=人間として基本的なものの考え方、考える力の養成を行ったといえる。今の日本ではタブーとされている精神論も教えたのだろう。彼は、勇気をあたえて世の中に出て働く意欲と自信を得させようと日々人と接してきたのだろう。松陰が聞く耳をもつ人に育て上げた松陰の感化力と聞く耳を持ち行動する志を持った塾生の行動が明治維新以降がつながり新時代を築いていく。
 再度1850年代を振り返れば西欧諸国の国々が不合理な国際関係を結ぼうとしていたとき、日本がなぜ植民地支配をのがれることができたのか、封建社会だったからの言葉だけで終わらない。第一次世界大戦を生きた日本人、1950年代半ばの高度成長期も 西欧近代化に対する恐怖心、劣等感からの脱出はできないという自覚があったからだと思う。このように見ていくと維新前の時代を精一杯生き、命をかけてきた人に思いをひそめることは自己満足に取らわれない精神に緊張を持ち続けた日本人の魂をみることができる。

 最後に、四国政経塾も礼儀作法・規則はやかましくいわない。学歴・年齢など問わないが松下村塾の方針と同じく共に学ぼうという姿勢で人と接し、助け合い、一緒に物事を考える中で心が通じ合い信頼感が生まれてくる。世間話やあるいは一人一人の悩みを聞き、また励ましあいいろいろな人と交流する中で視野を広める活動をしております。次回は京都・霊山記念館へいくことになります。塾に興味のあるかた一度訪問してみてください。

平成15年8月10日
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