第 253 号
「萩・津和野」偉人館巡り
 6月の29日30日と二日掛かりで萩、津和野偉人館巡りに向かいました。萩では、吉田松陰の生き様と高杉晋作が考えた騎兵隊を作れた謎である。
 萩市内に入る前に、秋芳洞を見学致しました。秋芳洞は前に韓国、機会の学塾の人達と来て以来です。やはり自然の凄さを見せつけらされ大きな感動の景色が広がっていました。

 萩市内に入り、高杉晋作の生家に行きました。家の間取りはそんなに大きくなく家の後ろ側には神社と寺が並んで立っていました。武家屋敷を一回りしたのち菊屋を見学し、円政寺に立ち寄り、寺の住職にイロイロ話を聞かせて頂きました。
 高杉晋作の将来に重大な影響を与えた出来事といえば、松下村塾に入門したということがあげられます。吉田松陰が主宰する松下村塾は、武士や町民など身分の隔てなく塾生を受け入れ、活きた学問を勉強する場としての役割を担っていました。
 高杉晋作は19歳のとき、幼なじみの久坂玄瑞に誘われ、松下村塾の門をたたきました。 入塾時、自信のあった自作の詩を見せると、吉田松陰は「才能はあるが、久坂玄瑞よりは劣っている」と指摘しました。吉田松陰のこの一言が、負けず嫌いだった晋作を奮い立たせ、それ以来、勉学に没頭するようになりました。松下村塾での勉強は、学んだ知識をどのように実行にし、将来の日本にどう活かすか、ということを中心に進められていきました。この吉田松陰の思いを忠実に受け継いだ塾生の中からは、明治維新、明治新政府で活躍した、多くの逸材が育っています。その中でも高杉晋作は、久坂玄瑞、吉田稔麿、入江九一とともに「松下村塾 四天王」と呼ばれ、他の塾生たちからも一目置かれる存在でした。
 当時の長州藩はアメリカやフランスの艦隊からの猛攻撃により、圧倒的な武力の差を見せつけられました。この難局を乗り切るため、長州藩主・毛利敬親は、隠遁中の高杉晋作を呼び出し、関門海峡の防衛についての対応策をたずねました。晋作は「奇を以って虚をつき敵を制する兵をつくりたい」との提案をしました。敬親は晋作のアイデアを承認し、下関の防衛を晋作に任せることにしました。平和な世の中に慣れてしまった武士だけでは、力にならないと感じていた晋作は、身分に関係なく広く兵士を募集しました。これは、吉田松陰の教えの中のひとつ、「草莽崛起(そうもうくっき)」という考え方によるものです。「草莽崛起」とは、すべての人が身分に関係なく世の中をよくするために立ち上がろうという思想です。吉田松陰の教えを忠実に受け継いだ高杉晋作は、奇兵隊の結成に草莽崛起の思想を取り入れました。こうして集まった民兵組織「奇兵隊」を、下関の白石正一郎の邸宅で立ち上げ、初代総督に就任しました。
 高杉晋作が立ち上げ、その後、討幕に向けて大活躍することになる奇兵隊ですが、晋作の奇兵隊総督としての役目は、わずか3ヶ月で終わってしまいました。長州藩には、武士だけで構成された正規軍がすでにありましたので、いうなれば新参者の奇兵隊とは、事あるごとに衝突していました。そしてついには、奇兵隊が正規軍先鋒隊の宿舎に押し入って、 隊士を斬り殺すという事件も発生してしまいました。(教法寺事件)これをきっかけに、高杉晋作は総督を解任されました。
 長州藩で教法寺事件が起こった。ちょうどそのころ、京都では「八・一八の政変」が起こりました。これにより、攘夷派である長州藩は京都から締め出されることになります。
 京都での政変を受け、長州藩では勢力の回復方法について、二つの勢力が対立することになりました。一つは遊撃隊の総督を務めていた来島又兵衛らによる武力で解決しようとするグループ、もうひとつは、周布政之助や高杉晋作らによる慎重に事を進めようとするグループです。
 高杉晋作は、藩主の命令により、来島又兵衛の説得を行うことになりましたが、これがなかなかうまく行かず、ついには様子を見てくるといって、藩主に無断で京都に行ってしまいました。桂小五郎たちに説得され、長州藩に戻った晋作は、この行為が脱藩とみなされ、かって吉田松陰も投獄されていた牢屋、野山獄に入れられてしましました。高杉晋作は、約三ヶ月もの間、野山獄に投獄されていたのですが、その間、長州藩は大きな危機をむかえていました。
 京都の池田屋で新撰組との乱闘の末、吉田稔麿を失い、(池田屋事変)京都蛤御門付近で長州藩士と、会津藩、桑名藩、薩摩藩の諸隊との衝突(禁門の変)がおこり、久坂玄瑞、入江久一、来島又兵衛を失ってしまいました。これらの事変により、松下村塾四天王のうち、残ったのは高杉晋作だけとなりました。また幕府は、禁門の変で長州藩兵が発砲した銃弾が御所へ向けて飛んだという理由で、この責任をとらなければ、長州に攻撃をしかけると脅してきました。そのうえ下関では、イギリス、フランス、オランダ、アメリカの四国連合艦隊が報復攻撃をしかけてきました。絶対絶命の状態となった長州藩でした。
 1864年8月、長州藩の攻撃によって大打撃を受けていたイギリスが中心となり、フランス、オランダ、アメリカと共に四国連合艦隊を結成、下関に再度攻撃を仕掛けました。このときには奇兵隊も応戦しましたが、近代兵器の威力にはかなわず、敗戦が濃厚となりました。そして長州藩は戦いをやめ、講和の道を選ぶこととなりました。野山獄を出た後、自宅で謹慎中だった高杉晋作を呼び出し、講和の全権を任せることにしました。
 連合軍との話し合いの場に立った高杉晋作は、悪魔のように傲然として交渉にのぞみました。欧米側の要求は、「賠償金300万ドルの支払い」と、「長州藩の領地である彦島を借してくれ」とのことでした。晋作はこれをきっぱりと拒否しながらも、攘夷を捨てることはあっさりと約束しました。こうして、何度かの話し合いで、講和談判をまとめあげました。これにより、長州藩は一つの危機を脱出することができました。この講和談判をきっかけに、長州藩は尊王攘夷から尊王討幕に転換しました。連合軍との講和談判が整ってすぐ、長州藩内では、幕府寄りの政治を推し進める、俗論党が要職を占めることになってしまいました。これにより、討幕を推し進めていた高杉晋作の仲間たちは、次々に排除されていくことになりました。井上門多は襲われ瀕死の重傷を負い、周布政之助は藩政を窮地に追い込んだ責任をとり自決、高杉晋作も、自分の身の危険を感じはじめていました。このままでは自分の命も狙われると悟った晋作は、福岡の平尾山荘に住んでいる、野村望東尼(のむらもとに)のもとに潜伏し、長州の情勢を見守ることにしました。長州藩がどんどん幕府寄りになっていく様子を、しばらくみていた高杉晋作は、いまこそ行動をおこすときだと判断し、下関に戻りました。
 下関に着くとすぐ、高杉晋作は諸隊をまわり、「兵を挙げて幕府寄りの俗論党と闘おう」と説得してまわりました。すぐにその説得に応じてくれたのは、遊撃隊と力士隊のふたつだけ、約80名という小さな兵力ではありましたが、晋作には、いずれは他の諸隊も同調してくれるだろうという確信があったようです。そして約80名の兵は、長府の功山寺に集結しました。まずは下関で長州藩の奉行所を襲撃、そして、三田尻で奇襲攻撃をしかけ、藩の軍艦3艇を強奪しました。この活躍に他の諸隊も次々に同調、兵力はどんどん増えていき、2000人にも達する規模となりました。大田絵堂の戦いを皮切りに、次々に正規軍と交戦し、勝利していきました。約2ヶ月もの戦いの末、俗論党政権は追放され、藩政は討幕へと踏み出すことになりました。
 討幕を掲げることになった長州藩は、土佐浪士の坂本龍馬の仲介で、西郷隆盛の薩摩藩と薩長同盟を結びました。八・一八の政変以来、対立が続いていた長州藩と薩摩藩でしたが、ついに団結するときがやってきました。
 6月にはいると幕府征長軍が、長州藩領を四方から取り囲み、攻撃を仕掛けました。四境戦争の始まりです。長州藩の藩境は4ヶ所あり、芸州口、大島口、石州口、小倉口の、それぞれの藩境で戦いが行われたため、四境戦争と呼ばれました。第二次長州征伐などと呼ばれることもあります。幕府は、まず大島口を攻撃、あっと言う間に周防大島を占領してしまいました。この知らせを聞いた長州藩は、高杉晋作を現地に派遣しました。晋作は、幕府の軍艦に対して夜のうちに奇襲をかけ、あっさりと撃退してしまいました。芸州口、石州口でも戦いが開始されましたが、芸州口では井上聞多、石州口では大村益次郎の活躍により、勝利しました。小倉口では、大島口から戻った晋作が指揮をとり、幕府への忠誠心が強い小倉藩との戦いが繰り広げられました。途中、坂本龍馬率いる海援隊の応援もあり、小倉城奈落という形で長州藩の勝利で幕を閉じました。それぞれの戦地で長州藩が圧倒的に勝利し、幕府の弱さが浮き彫りになりました。そして、討幕への大きなきっかけとなりました。以前より、肺結核におかされていた高杉晋作の病状は、小倉口の戦いのころには、立てなくなるほどに悪化していました。それでも、無理をして陣頭指揮をとろうとする高杉晋作に対し、長州藩は療養に専念するよう命令しました。高杉晋作は、藩の命令に従い、下関の桜山招魂場下の家で療養生活に入りました。けれども、すでにすべての力を出しきっていた晋作には、遅すぎる療養生活でした。
 慶応3年4月14日(1867年5月17日)「おもしろきこともなき世をおもしろく」という辞世の句を残し、高杉晋作は、28歳という若さで、その激動の人生の幕を閉じました。
 かつて晋作が、吉田松陰から死生観について聞いた言葉に次のようなものがあります。「死して不朽の見込あらばいつでも死ぬべし。生きて大業の見込あらばいつでも生くべし」師の教え通り、数々の命の危険をおかしながら、晋作は生き抜いてきました。そして、また師の教え通り、高杉晋作は不朽の功績を残しこの世を去っていったのです。高杉晋作のなきがらは、奇兵隊の本拠地である下関吉田に葬られました。高杉晋作が亡くなって、半年後、15代将軍徳川慶喜は、政権を返上することを申し出ました。(大政奉還)260年あまり続いた江戸幕府が倒れ、明治時代の始まりとなりました。高杉晋作の行動は時代を動かすまでの大きなものでした。高杉晋作に此れだけ影響を与えた吉田松陰は如何なる人物か探索の為松下村塾に向かいました。松下村塾の前に資料館が有り、当時の様子が蝋人形を置き詳しく説明されていました。
 文政13年(1830年)8月4日、萩城下松本村で長州藩士・杉百合之助の次男として生まれる。天保5年、叔父で山鹿流兵学師範である吉田大助の養子となるが、天保6年に大助が死亡したため、同じく叔父の玉木文之進が開いた松下村塾で指導を受けた。11歳の時、藩主・毛利慶親への御前講義の出来栄えが見事であったことにより、その才能が認められた。しかしアヘン戦争で清が西洋列強に大敗したことを知って山鹿流兵学が時代遅れになったことを痛感すると、西洋兵学を学ぶために九州に遊学する。ついで、江戸に出て佐久間象山に師事する。
 嘉永5年友人である宮部鼎蔵らと東北旅行を計画するが、出発日の約束を守るため、長州藩からの過書手形(通行手形)の発行を待たず脱藩。この東北遊学では、水戸で会沢正志斎会と面会、合津で日新館の見学を始め、東北の鉱山の様子等を見学。秋田では相馬大作事件の真相を地区住民に尋ね、津軽では津軽海峡を通行するという外国船を見学しようとした。江戸に帰着後、罪に問われて士籍剥奪・世禄没収の処分を受けた。
 嘉永6年、ベリーが浦賀に来航すると、師の佐久間象山と黒船を視察し、西洋の先進文明に心を打たれ、外国留学を決意。同郷の金子重之輔と長崎に寄港していたンのロシヤ軍艦に乗り込もうとするが、ヨーロッパで勃発した戦争にイギリスが参戦した事から同艦が予定を繰り上げて出航した為に失敗。
 安政元年にペリーが日米和親条約締結の為に再航した際には金子と二人で伊豆下田港に停泊中のボーハタン号へ赴き、乗船して密航を訴えるが拒否された(一説ではペリーの暗殺を計画していたともいわれる)。松陰は乗り捨てた小舟から発見されるであろう証拠が幕府に渡る前に下田町隣村の名主に自首し、下田で取調べを受けた後、伝馬町の牢屋敷に送られた。この密航事件に連座して佐久間象山も投獄されている。幕府の一部ではこのときに佐久間、吉田両名を死罪にしようという動きもあったが、老中首座の阿部ま正弘 が反対したため、助命されて長州へ檻送され野山獄に幽囚される。獄中で密航の動機とその思想的背景を『幽囚録』に著す。
 安政2年に出獄を許されたが、杉家に幽閉の処分となる。安政4年に叔父が主宰していた松下村塾の名を引き継ぎ、杉家の敷地に松下村塾を開塾する。この松下村塾において松陰は多くの優秀な人材を教育していった。なお、松陰の松下村塾は一方的に師匠が弟子に教えるものではなく、松陰が弟子と一緒に意見を交わしたり、文学だけでなく登山や水泳なども行なうという「生きた学問」だったといわれる。
 安政5年(1858年)、幕府が無勅許で日米修好通商条約を締結したことを知って激怒し、討幕を表明して老中首座である間部詮勝の暗殺暗を計画する。だが、弟子の久坂玄瑞、高杉晋作や桂小五郎らは反対して同調しなかったため、計画は頓挫した。さらに、松陰は幕府が日本最大の障害になっていると批判し、倒幕をも持ちかけている。結果、松陰は捕らえられ、野山獄に幽囚される。やがて大老・井伊直弼による安政の大獄安政が始まると、江戸の伝馬町牢屋敷に送られる。幕閣の大半は、暗殺計画は実行以前に頓挫したことや松陰が素直に罪を自供していたことから、「遠島」にするのが妥当だと考えていたようである。しかし松陰は尋問に際し老中暗殺計画の詳細を自供し、自身を「死罪」にするのが妥当だと主張。これが井伊の逆鱗に触れ、安政6年(1859年)10月27日に斬刑に処された。享年30(満29歳没)生涯独身であった。
 獄中にて遺書として門弟達に向けて『留魂録』を書き残しており、その冒頭に記された辞世は“身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂”。また、家族宛には『永訣書』を残しており、こちらに記された“親思う心にまさる親心けふのおとずれ何ときくらん”も辞世として知られている。処刑後、小塚原回向院(東京都荒川区)の墓地に葬られたが、文久3年に高杉晋作ら攘夷派の志士達により現在の東京都世田谷区若林に改葬された。幕末に生き大きな影響を与えて二人の壮絶な人生を少しは理解出来た時間でした。

 萩を後にして、津和野に向かい、夕方には旅館に着き、風呂に入り一休みし食事を頂き、コンビニでビールを買い、萩の反省会をし、床に着きました。
 翌朝、朝食後旅館を出て、綺麗に整備された津和野のなまこ塀と掘割に泳ぐ鯉の町並みを見学し、津和野カトリック教会を見学、民族資料館でイロイロ津和野の話を聞き、太鼓谷稲成神社に向かいましたが、本殿まで鳥居が約1000本有り朱に塗られた鳥居を潜り本殿まで向かいましたが、暑さで疲れ途中で断念致しました。次に葛飾北斎の美術館で北斎の直筆の画に感動し一枚一枚丁寧に自分なりに鑑賞させて貰いましたが感動でした。
 山の中腹に有る、マリア聖堂のマリア像を見に行きましたが、其処は、昔キリスタンが処刑された場所で誰か解らないが、其の人達の供養の為、小さな教会とマリア像が作られたそうです。少し離れた所に森鴎外の生家を見学し、近くの和紙の里で食事をし、帰路に向かいました。津和野はもう一度時間を掛けて今の街並みがどの様にして出来たか、又、イロイロな時代背景を勉強したい所でした。

        

 今回の偉人館巡りは欲張りすぎて、強行スケジュルでした。反省として、どちらかをユックリ見てもう少し掘り下げて勉強すべきで有りました。
平成25年6月30日
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