第 254 号
「犬養 毅」偉人館巡りに参加して
 ~考察:なぜ五・一五事件が勃発したか~
 犬養 毅(いぬかい つよし)号は木堂。備中国(岡山県)庭瀬藩士犬養源左衛門と妻嵯峨の次男として安政2420日生(1855年)、明治8(1875)上京、慶応義塾に学んだ。
 その後、郵便報知新聞の記者として西南戦争に従軍、東海経済新報記者を経て、立憲改進党創立に参画し、大同団結運動で活躍。明治23年(1890)第1回総選挙で衆議院議員に当選して、以後第18回総選挙まで連続当選、国進歩党総裁、立憲国民党総裁、革新倶楽部総裁、立憲政友会総裁、文部大臣、逓信大臣、第29代・内閣総理大臣、外務大臣、内務大臣などを歴任した。
 犬養 毅は、昭和七年(1932年)515日、軍部政権樹立をもくろんだ青年将校らにより暗殺された。
 五・一五事件のとき、犬養 毅が暗殺された状況については、元海軍中尉・山岸宏の回想によると犬養毅は、銃を向けられた際『まあ待て。まあ待て。話せばわかる。話せばわかるじゃないか』と何度も言う中で殺害された。
 犬養毅には、議会制民主主義では暴力やテロではなく問題は話し合いによって解決しようとする根本理念があり、第一次世界大戦時の行動と好景気で世界の先進国の仲間入りをした日本が中国への進出する中、特に軍備拡張による広域経済圏の確立に暴走する軍部の行動に憂慮を抱いていた。
 関東軍は、昭和六年(1931年)9月、奉天(ほうてん)郊外の柳条(りゅうじょう)湖で、満州鉄道の線路を故意に破壊し、中国側の犯行と発表する軍事行動に出て、その後、若槻内閣は、関東軍を止める事ができず総辞職、その年の暮に立憲政友会の総裁であった犬養が首相となった。
 犬養内閣は、関東軍の暴走について国際連盟設立を機に結ばれた9ヶ国条約に違反するから、満州国独立の承認を渋っていた。
 一方、この国内では、汚職や腐敗が横行している政党政治にイヤ気がさしている国民は、少なからず軍部に期待を寄せており、その軍部では青年将校らが「日本のような小領土の国は、大領土のイギリスやロシアと戦ってアジアから排除し、日本を中心とする大アジアを造らねばならない」と解いた国家改造の思想へと傾いていき、犬養毅首相の生き方に反発し青年将校らによりテロ行為や暗殺事件を繰り返すようになった。
 このような状況下において犬養首相の官邸に侵入した青年将校らに9人も、仲間とともにテロ行為を起こして戒厳令がしかれ、犬養・死亡のあかつきには、きっと軍事政権が誕生するものと信じていた。
 この時、官邸に侵入し、先に犬養を発見したのは三上でした。興奮状態の彼らに出合った犬養首相は「何を騒いどるんや!」と一喝・・・さらに銃をつきつけられても「待て、待て、話せばわかる」と、冷静に彼らを客間へと通します。客間が日本間だった事で「コラ、君ら土足やないかい!他人ちにあがんねやったら靴ぐらい脱いだらどやねん」と、落ち着いて対処・・・そこで、三上は「靴の心配はあとでもよろしいやん。俺らが何のために来たかはわかりますやろ?何か言いたい事があるなら言いなはれ」その言葉を聞いた犬養が何か言おうと・・・と、その瞬間、部屋に入ってきたばかりの山岸が「問答無用!撃て!」と叫んだ事から、黒岩勇予備役海軍少尉が、飛び込みざまに一発・・・次いで、他の者も次々と銃を発射し、官邸をあとにしました。銃の音に驚いて駆けつけた女中に、犬養は苦しい息の中「もっかい、あの若いヤツらを、ここへ呼んで来い!わかるように話してきかせるから・・・」と言っていたと言います。直後には意識があり、家族とも会話をしていたという事ですが、次第に様態が悪化し、午後1126分、帰らぬ人となりました。
 犬養首相は、享年77歳。その毒舌ゆえ、敵も多かったと言われる。今回の軍備拡張による広域経済圏の確立に暴走する軍の行動に憂慮し『まあ待て。まあ待て。話せばわかる。話せばわかるじゃないか』との言動に対して、武装した青年将校たちは、二・二六事件時の反乱将校の投降後も量刑についてをみて、昭和七年(1932年)515日、軍部政権樹立をもくろんだ青年将校らによる五・一五事件が勃発も楽観視し、時の首相・犬養毅を暗殺したのではないか。
 この暗殺事件の背景やこの犬養と軍人の会話のやりとり
  ○ 話せばわかる   ○ 問答無用!
については、犬養毅と大日本帝国海軍の青年将校考えを表しており、二・二六事件や五・一五事件は、まさに当時の時代の移り変わりを大きく象徴しており、世界情勢に大きな影響を与えたのではないかと思う。
平成25年7月20日
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