第 257 号
ジョン万次郎資料館訪問
 824()、偉人館巡りの為、ジョン万次郎資料館を訪問。高知県土佐清水市・海の駅あしずりに資料館があります。塾を午前9時出発 ⇒ 午後1230分頃到着しました。思っていたより早く着きました。平成18420日に足摺岬地区より、養老地区の海の駅あしずり構内に移転オープンした。移転する以前にも訪問し、今回で3度目となります。

 文政10(1827)11日、土佐・中ノ浜の貧しい漁師の次男 中濱万次郎として生まれました。万次郎が9歳の時に父親を亡くし、病弱な兄にかわって幼い頃から下働きに出ていました。
 天保12(1841)14歳だった万次郎は、自分の判断で漁師の見習いになり、仲間5人と共に初漁に出てそのまま遭難してしまいます。数日間漂流した後、太平洋に浮かぶ無人島・鳥島に漂着。一人は足にケガをしており、もちろん無人島ですから島には人も草木も無く食べ物も水も無い、万次郎達5人はそこで過酷な無人島生活をおくりました。食べ物等は、アホウドリの肉を海水で洗い、干し肉にして食べ、荒地にわずかに生えたイタドリ等、飲み水はさらに状況が厳しく手桶や貝殻に雨水を溜めて、かろうじて乾きをいやしていました。漂着から143日後、万次郎達は仲間と共にアメリカの捕鯨船「ジョン・ハウランド号」によって助けられました。この出会いが万次郎の人生を大きく変えることとなります。救助された後、この船で万次郎達の新しい生活が始まります。ある日、万次郎が見張り台に立っていると遠くで鯨が潮をふいているのを見つけ、思わず万次郎は「シーブローサーShe blows sir !=鯨が潮をふいていますよ」と大きな声でさけびました。船長は大変喜び、それからというもの、万次郎にいろいろな事を教えるようになった。救助されたものの当時の日本は鎖国をしており、外国の船は容易に近づける状態ではなく、帰国できたとしても命の保証はなかった。ジョン・ハウランド号の漁師たちは、途中で立ち寄ったハワイで船を降りるため、ホイットフィールド船長は、安全なハワイに皆を降ろす事になりますが、船長は、万次郎がとてもよく勉強をするので、大変気に入っており、アメリカに渡ることを決心した万次郎を快く受け入れ、他の4人はハワイに降ろし、万次郎だけは、アメリカの自分の住んでいる町、マサチューセッツ州・フェアヘーブンへ連れて帰ることにします。その町で、万次郎は「ジョンマン」とよばれるようになります、その方が呼びやすいといって、船乗りたちが付けてくれたそうです。
 ジョンマンは、船長と共に暮らす事になりますが、船長はさっそくジョンマンを連れて、教会に出掛けます。ところがその頃は、肌の色が違うというだけで、仲間はずれにする人達がまだまだ沢山いて、なかなか受け入れてもらえません。しかし、船長はジョンマンを自分の子のように思っていたため、なんとか受け入れてくれる教会を諦めずに探しまわり、そして見つけました。ジョンマンは船長の養子となり、船長と共に暮らし、ジョンマンは勉学に励みますが、学んでいる際、日本では見たことも聞いた事もない事が沢山あるのに驚き「この事を、日本の皆に知らせたいと」そう思ったジョンマンは、どんどん勉強をつづけ、やがてもっと上の、船長になるため、学校で英語・数学・測量・航海術・造船技術等学びましたが、ジョンマンは首席になるほど熱心に勉学に励んだ。
 卒業後は捕鯨船に乗り、副船長としても活躍。数年の航海を経た後日本に帰国することを決意。帰国資金を得るために万次郎が向かったのは、ゴールドラッシュの起こっていたカリフォルニア。金鉱で得た資金で船を購入し、ハワイの漂流仲間のもとへ。そして、日本に向けて出航となりますが、ジョンマンが二十歳になった頃、ある日、ジョン・ハウランド号の船乗りが声をかけました。「一緒に船に乗らないか?」「日本の近くに行くのか?」「君と初めて出会った島の近くを通るよ」この一言でジョンマンは、遠い日本にいる母親、ハワイで別れた四人の仲間に会いたくてたまらなくなり、帰国する決意を決めました。
 捕鯨船フランクリン号にスチュワード(給仕係)として乗船。その後フランクリン号の一等航海士(副船長)になる。出航後、一年が過ぎた夏頃、ようやく船は日本の近くを、ジョンマンはそこで沢山のかつお船をみつける、仲間の船員たちも、ジョンマンの国の船だとわかり、ボートをおろしてくれる。ジョンマンは喜びいさんでかつお船にボートを近づけ、漁師たちに話しかけます。「イズ ディス ア パート オブ ジャパン?」思わず英語が出てしまい「しまった」と、あせれば、あせるほど日本語が出てこず、「ここは、日本のどこですか?」と、ようやく日本語で訪ねる事が出来たが、かつお船の漁師たちはだまって首をふる、ジョンマンはがっかりして船に戻るよりほかはなかった。ジョンマンは悲しい気持ちのまま、二ヶ月が過ぎハワイに向かう、そこで懐かしい仲間と会い、必ず日本に帰ろうと約束をし、三年ぶりにフェアヘーブンに戻ります。その後、ジョンマンはハワイにいる仲間と一緒に日本に帰るため、カリフォルニアの金鉱で資金をつくります。カリフォルニアで苦労の末、何とかお金を貯め、ハワイの仲間のところへ行きますが、残念ながら仲間の一人はすでに亡くなっていて、もう一人はハワイで結婚しており、後の残った三人が日本を目指すため帰国準備を整え、仲間と共に中国へ行く船に乗り込み、沖縄の近くでおろしてもらう事となります。沖縄に上陸した三人ですが、外国人が着る洋服、英語まじりの言葉のため、役人に厳しい取り調べを受け、日本に上陸できたにもかかわらず、何ヶ月も外に出る事が出来なかった。万次郎は上陸から母親に会うまで約2年もかかったそうです。それは取調べが厳しかったのではなく、万次郎達は日本語を忘れていたようです。「ただいま帰りました」万次郎が帰ってくるうわさを聞き、母は晴れ着を着て待っており、長い間夢にまで見た母がいて、万次郎も母親も胸がいっぱいで何も言う事ができず、ただただ涙を浮かべるだけだったそうです。
 ジョン万次郎は、アメリカから帰国後、政治・文化・先進技術を日本に伝え、また、その豊富な知識で、次の世代を担う多くの人材を育成します。ジョン万次郎が教え、指導した人々は、明治維新後に政治や教育の分野で活躍しています。土佐藩の藩校では、岩崎弥太郎や後藤象二郎も万次郎の講義を受けていたと伝えられています。
 その後、ジョン万次郎が43歳のとき、21年ぶりに再びフェアヘーブンを訪れます。昔と変わらない温かい船長の家族、フェアヘーブンの人たち、万次郎は恩返しをしたいと思い『世界に向かって日本を開くことだ。アメリカ人、日本人という区別はない、やさしさや思いやりによって人々はつながるんだ』と、今でもこの心で、船長と子孫であるホイットフィールド家と、万次郎の子孫である中浜家の人たちはつながっています。

 ジョン万次郎は遭難し、捕鯨船 ジョン・ハウランド号に助けられ、船長と共にアメリカで暮らし、異国で見聞きする全てのものに驚き、日本の皆に知らせたい一心から、彼は寝る間を惜しんで熱心に勉学に励み、帰国後も日本で活躍しています。ジョン万次郎の人生は「決して諦めない」という事も教えてくれています。絶望的な状況にあっても最後まで諦めないという万次郎の精神力が無人島からの脱出を実現させる。それは、島の近くを通りかかった捕鯨船に気づいてもらえず、仲間の誰もが諦めた時、万次郎ひとりが諦めずに島を約3kmも走り、船に合図を送り続けたと伝えられています。
 どんな、境遇に遭おうとも、絶望的な状況にあっても万次郎のように「決して諦めない」という真の心を持つ事を学びました。何事も決して諦めなければ、必ず道は開ける。

 ジョン万次郎資料館の次に、中土佐町久礼にある「久礼大正町市場」に向かいました。
 この久礼大正町市場は、どこか懐かしい市場で、活きのいい魚とおばあちゃんに会う!鰹乃國・中土佐町には、生粋の漁師町らしい活きのいい市場があります。場所は久礼の真ん中。アーケード下の狭い路地周辺に、小さな店がひしめく久礼大正町市場です。この地に店が立ち並び、市場っぽくなったのは明治半ば。漁師のおかみさんたちが、夫や息子のとってきた魚を売り出したのが始まりと言われていいます。以来、「久礼の台所」として、町の人たちに親しまれてきました。いつも新鮮そのものの魚に負けずと活きがいい、地元農家のおばちゃんたちが育てた、旬の野菜や果物、山菜の水煮や塩漬け、魚の姿寿司、手作りお惣菜など、美味しいものがたくさん並んでいて、そんな活気あふれる久礼大正町市場です。平成1512月に、明るい木造アーケードにリニューアルした大正町市場ですが、市場名の由来は、大正4年、市場周辺が大火にあい、大正天皇から当時のお金で350円が復興費として届けられ、町民はこれに感動し「地蔵町」という名を「大正町」に改めました。以来大正市場と呼ばれています。
 ちょうど、大正町市場に私たちが到着した時は、夕方の4時半頃でした。大正市場の入口から、アーケードを進み一番奥の店でお土産に・かつおタタキ・アジ干物・カマス干物を買いましたが、時間が時間だったため、ほぼお店に並んでいた商品が売れていました。話に聞くと、季節にも影響がありますが、今の季節だと午後の2時前後くらいに来たら、一番新鮮な魚が並んでいますと教えてくれました。今回は偉人館巡りの為、土佐清水市までの時間がかかっていたので、中土佐までなら、1時間半くらいで行けますので、是非また買い物に伺いたいと思っています。
平成25年8月24日
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