第 277 号
自由民権記念館
 7月12日(土)に高知市の自由民権記念館に行きました。偉人館巡りは今回が二度目ということもあり、前回とは違う感覚で参加することができました。偉人館巡りをしていく中で特に関心を持ったことは、四国でも本州から遠く閉鎖された地域だと思われる高知からなぜ日本を変えるような人たちがたくさん輩出されているかということです。その答えは今後偉人館巡りをしていくことで明らかになるかもしれません。
 自由民権運動の出発点となったのは、板垣退助・副島種臣・後藤象二郎・江藤新平・由利公正・岡本健三郎・古沢迂郎・小室信夫らが1874年(明治7年)1月12日に愛国公党を結成して、17日に「民選議院設立の建言」を左院に提出し、翌日の18日にこの全文が『日新真事誌』に掲載されたことです。武力ではなく世論に訴えていくことで政治的目標を達成しようとする愛国公党結成と「民選議院設立の建言」は日本の歴史上で画期的な出来事でした。政府のやり方に不満を持っていた多くの士族や農民たちに支持されることになりました。政府は自由民権運動を抑えようと演説会や出版物などを厳しく取り締まったが、その勢いは衰えませんでした。このようにして1881年に政府は10年後に国会を開くことを約束することになりました。
 立志社は西南戦争中に挙兵策も政策支援策も退け、自由民権運動の方針を確立していきました。それを明らかにした立志社建白は言論活動によって人民を集結し、その力によって民主主義国家をつくっていこうという新しい進路を示したもので、本格的に自由民権運動の起点となった文書でした。ここから言論・出版・結社・民会の活動が活発に展開され、また全国の政客が多数土佐からやって来ることとなりました。

        

 立志社建白は植木枝盛が草稿を起草し、幹部の修正を得て作成されました。これを総代の片岡健吉が1877年(明治10年)6月9日に京都の行在所に提出したが却下された為、立志社は直ちに建白書を印刷して配布しました。建白は政府の失政を八項目にわたって指摘したうえで、国会開設・租税の軽減・不平等条約改正・地方自治の確保・政商に対する保護政策反対などを要求したが、これらは全国的な自由民権運動の基本的な要求となりました。
 自由民権運動は現在の日本につながっていて、当時の人たちは自身のお金や自由を投げ打ってでも国の為に行動してきました。この自らを犠牲にしてでも何かを成し遂げる精神力は並大抵のものではないと思いました。普段の自分の生活においても目標をしっかり定めて一つのことを成し遂げるという点においては通じるものがあると思うので、何事も諦めずに挑戦していきたいです。今回の訪問で同じ志を持った人たちが集まれば国を動かすことも可能なので、そういった人たちが集まれば現代においても地域から日本を変えることは決して不可能ではないと思いました。それを行ううえで絶対に必要だと思うものは人脈です。
平成26年7月19日
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