第 28 号
京都で感じたもの
 今回の偉人館巡りは、幕末の面影が色濃く残る京都。京都は、文字通り日本古来の首都であり、歴史の節目に必ず登場する都である。
 私は、中学時に修学旅行で訪れて以来、今回で二度目だ。もちろん、目的意識を持って京都を訪れるのは初めて。目的意識とは、かつて佐幕派と倒幕派が相争ったこの都で、彼等の形跡を肌で感じ、自分自身を振り返ること。
 どんよりとした曇り空を天に見ながら、最初の目的地である霊山を訪れた。ここは、維新志士達の墓地であり、京都の観光地の一つだ。戦後、荒れるがままの状態であったことに憂いた故松下幸之助が霊域を整備して復旧させたのだ。長い階段を上ると、坂本龍馬と中岡慎太郎のお墓が仲良く並んでいる。傍らには、訪れた人達が竜馬と慎太郎へ感謝の言葉を書いた石画が多数置いてあった。さらに、この位置からは京都の町並みを一層できる。ここから150年たった今も、この都を見守っていてくれているということを感じずにはいられない。
 しかし、驚いたのはその墓の多さだ。一つの山一帯に無数のお墓が並んでいる。ここにあるのはほんの一部であろうが、それでも大変な数だ。これだけの人たちが、幕末の動乱に散っていった・・・。彼等をつき動かした国を想う心。それがどれほど強かったのかは想像するにかたくない。私も含め、現代人(特に若世代)には愛国心が薄い。ここには国を想う心がどれだけ大切であり、そのエネルギーがどれだけ強いかを、この地に眠る志士達が身をもって教えてくれているように感じる。

 次に、霊山記念館を見学した。この記念館も、故松下幸之助が先駆者達の資料を展示する場として設立したのだ。
 一番目を惹かれたのは、新選組隊士達直筆の書だ。書いてある内容は読めなかったが、見るだけで当時の様相が目に浮かぶようだ。
 この記念館は、近代国家を切り拓いた先人達の進取の精神を学べる総合資料館であるから、その資料の量たるや半端ではない。残念ながら時間の都合上、ひとつひとつ見ることはできなかったので、次回の見学時には、今回見れなかった部分をぜひ見学したい。

 翌日は、まず新選組発祥の地である八木家を見学した。ガイドの方に屋敷内をくわしく案内していただいた。新選組は、将軍上洛の警護の名目で上京してきた浪人隊のうち、八木家を宿所にしていた芹沢鴨、近藤勇ら13名が京都守護職松平容保お預かりのもとに結成した。任務は京の治安維持。よく新選組は、近藤や土方らが浪人を集めて作った人斬り集団と思われがちだが、れっきとした公職の集団(現代でいう警察)なのだ。彼らは厳しい規律のもと、不逞浪士取締に奔走する。池田屋事件で一躍その名を轟かせ、以後禁門の変や鳥羽伏見、会津戦争を経て、函館戦争で解散するまで、最後の最後まで徳川家のために戦い続けた。ここ八木家は、そんな新選組の激動の歴史を目撃してきたのだ。さらにここは、隊内の規律を無視し、我が物顔で京を横行する初代局長芹沢鴨の一派5名を討った場所としても有名だ。その時の刀傷が今も柱に残っていた。味方軍が次々に官軍に寝返る中、最後までただ一文字の「誠」に生きた彼等こそ、真の武士ではなかろうか。


 次に二条城を見学した。この城は徳川家が京へ上洛のおり、拠点にしていた場所である。私はぜひ一度ここを見学したかった。というのも、15代将軍徳川慶喜が約250年続いた江戸幕府に終止符をうったのが、ここ二条城だったからだ。豪華絢爛の建築を施し、時の権力の絶大さを堂々と示すこの城で、自分の代で幕府に幕を降ろすその無念さ、悲しさ、先祖や家臣への申し訳なさは、果たしていかほどのものであったのだろう。だが、この苦渋の決断が全面戦争を避け、多くの命を救い、すみやかに明治新体制に移行できたことを考えると、その決断は賞賛されるべきものだ。今の時代、権力の椅子にしがみつき、それがもとで組織を潰してしまった例は数多くある。何とも情けない話だ。これからの国を想い、苦汁を舐めながらも、自ら身を引くというのもひとつの愛国心ではなかろうか。現代人が慶喜の決断から学ぶべきものはたくさんあるように思う。

 佐幕派と倒幕派。彼等に共通するのは想う心、すなわち愛である。自分の家族、子孫、主君、そして国。これらを守るために彼等は何の見返りもなく命を懸け、幕末の時代を駆けて行く。今の時代はよく幕末に例えられるが、決定的に違うのは現代人にこの愛が薄いことだ。同時に、「私自身、果たしてその愛があるのか?」ということを改めて考えさせられた。

 この研修で学んだ愛の精神について、改めて政経塾で学ぶとともに、広く世の人達に伝えていかなければならないと感じながら、京をあとにした。
平成15年9月7日
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