第 282 号
賀川豊彦記念館訪問
 9月20日()に徳島県鳴門市の賀川豊彦記念館に行きました。私は記念館に行くまで賀川豊彦について全然知りませんでした。どういったことをした人物なのか興味を持ちつつ鳴門市に向かいました。パンフレットを貰って気づいたのは友愛・互助・平和のために生涯を捧げ、ノーベル平和賞候補に3度、ノーベル文学賞候補に2度ノミネートされた偉人だったということです。
 賀川豊彦は、1888年(明治21年)に賀川純一の子として神戸に誕生しました。父の純一は徳島県における自由民権運動創設者の1人で、元老院権少書記官・徳島県行政府の長官を務め、神戸で海運業を営んでいました。4歳で両親を失い、1893年(明治26年)に父の本家である現鳴門市大麻町東馬詰の賀川家に引き取られました。賀川家は代々庄屋で先代は組頭を務め富農・藍商でした。4歳で両親に先立たれたことを考えると、家庭のぬくもりに包まれることも少なく寂しく孤独で決して恵まれたものではなかったと思います。
 1900年(明治33年)に堀江高等小学校(現堀江南小学校)を卒業後、徳島中学に入学し、1905年(明治38年)に卒業しました。徳島中学時代にはトルストイ、ラスキンやキリスト教社会主義者の著書を耽読して、非暴力・反戦・平和主義の思想を抱きました。キリスト教宣教師のローガン、マヤス両師の影響で1904年(明治37年)に洗礼を受けることになりました。この年に賀川家は父の海運業を継いだ長兄の事業失敗によって破産し家産を全て失いました。一時叔父の森六郎の保護を受けたが、明治学院高等部神学科に入学したことで叔父に学資を絶たれ、マヤス師の庇護を受けるに至ります。1907年(明治40年)に明治学院予科卒業後、神戸神学校に移るが、その頃結核が重症となり数度死の淵をさまよいました。
 病苦による絶望の中で1909年(明治42年)に貧しい人々の救済事業に携わることで生きた証を立てようとして神戸のスラムに住み込むことになります。生活条件の極度に悪いスラムでの救済活動の中で奇跡的に健康になり、ハル夫人と出会って1913年(大正2年)に結婚し、2人してスラムで悪戦苦闘します。
 1914年(大正3年)、スラムでの救済活動に限界を感じ、アメリカのプリンストン神学校・大学に留学しました。幅広い学問を学び、アメリカのスラム見学や労働運動から示唆を得て1917年(大正6年)に帰国しました。
 帰国後に、「救貧から防貧へ」というスローガンを掲げ、労働運動、農民運動、普通選挙運動、生活協同組合運動などの先頭に立って大正デモクラシーの機運を盛り上げました。
 1923年(大正12年)の関東大震災救援活動にいち早く駆けつけ、被害の大きかった東京本所にセツルメント(隣保活動の拠点)を作って奮闘しました。これを契機に生活の本拠を東京に移しました。 昭和初年には、反ファシズム・平和運動に挺身し、官憲に拘留されたこともあり活動が制限されました。
 戦後占領軍総司令長官マッカーサーからいち早く意見を求められ、食糧支援などを要請し、東久邇内閣の参与を務め、世界連邦国家運動を始めました。終生この運動を続け、世界の著名人とともに世界の平和運動に貢献してノーベル平和賞候補に3度推薦されました。1960年(昭和35年)に東京都世田谷区松沢の自宅で病没しました。
 賀川豊彦らの活動により都市スラムは昭和初年に大いに改善され、貧しい人々や労働者・農民・女性等の権利は拡大され、彼の平和思想は世界の人々を啓発しました。戦前戦後を通じて世界各地に招かれ、各国の人々に友愛・互助・平和の精神を説き感銘を与えました。生活協同組合運動は今日もコープこうべ・大学生協・農協共済などで実を結び、彼の資金提供によって多くの社会福祉施設や幼児教育施設がつくられ活動を続けています。
 賀川豊彦は自ら様々な活動を積極的に行い、人々の力になっていたことがよくわかりました。人助けなどの当たり前のことを当たり前にできることが素晴らしいと思いました。私自身、物事に積極的に取り組む姿勢やリーダーシップを見習っていき、実践していくようにしていきたいです。賀川豊彦記念館の後には、ドイツ館とバルトの庭に行きました。
平成26年9月20日
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