第 294 号
京都訪問
 7月21日から23日まで京都に偉人館巡りの勉強に出かけました。

 21日は寺田屋訪問です、寺田屋事件とは、京都・伏見の船宿「池田屋」で薩摩藩士が同士討ちにより多数の死傷者を出してから4年が過ぎようとしていた慶応2(1866)年1月24日未明、今度は奉行所の役人に踏み込まれる事件が発生する。ターゲットは土佐藩脱藩浪士の坂本龍馬。龍馬の仲介で犬猿の仲だった薩摩、長州両藩が軍事同盟を結んだ直後の出来事だった。階段を駆けのぼって押し寄せる役人。だが龍馬も簡単に捕まりたくない。握りしめた拳銃から数発の弾丸が役人めがけて打ち込まれた。
 発生は24日午前2時ごろとされている。濠川(ほりかわ)沿いに建つ寺田屋も舟の出入りが多い日中ならまだしも、この時間ともなると通行人はほとんどなく、外からの音といえば皆無に等しい静けさだった。
 だが、この日は違っていた。龍馬の妻、お龍(りょう)が最初に旅館の外から複数の人が動き回るような雑音に気付く。元治元(1864)年8月、龍馬と結婚したお龍だが、すぐに国事に奔走中の龍馬と離れると、寺田屋に預けられて以来ずっとここで働いていたのだ。
 この日は前日からの仕事もひと段落し、入浴している最中だった。複数の物音に気付いたお龍は、ふと浴室の窓のわずかな隙間から外をのぞいてみた。
 すると片手には、自由に回転する鉄輪にロウソクが固定された龕灯提灯(がんどうちょうちん)片手には槍(やり)を持った数人の役人が寺田屋前をうろついているのを目撃する。見えないまでも、音の数からしてもっといることを確信する。
 全身が凍りついたように動けないお龍。そんなとき浴室の物音に気付いた役人の槍先が浴室の壁を突き破ってきた。
 「誰や!!」お龍は周囲に聞こえるように大声を出した。
 役人は「静かにせい。騒ぐと突き刺すぞ」と低い声で脅しつつなだめようとしたが、お龍は「お前らにやられる私じゃない」などと、大声でぼやきながら裸足のまま庭先に出たという。このあとお龍は建物内に入ると、裸のまま2階の龍馬のもとに駆け込んだというシーンが思い浮かぶ。ところが、ぬれたままで帯は着けずに着物をひっかけ、階段を駆け上がったといった話ものちの記録に残っている。
 寝静まった夜を狙い、天下の大罪人・龍馬をあわよくば逮捕、あるいは殺害してしまうはずだった。
 響き渡る銃声・・・。当時、龍馬の部屋には長府藩の三吉慎蔵(みよししんぞう)もいた。下関から龍馬に同行していた。
 ドタドタとした足音に続いて閉め切った襖(ふすま)が開いたところで「下には奉行所のお役人が。早く」。息を切らして2階に上がってきたお龍だったが、龍馬も下の異変には気付いていたようで、刀は腰に差し手に高杉晋作からもらったという拳銃を持ち身構えていた。
 三吉も刀を腰に差し手に槍を握ったまま腰掛けに座っていた。
 お龍に続いて、今度は障子戸が微妙に動く音と同時に、わずかな隙間から視線を感じた龍馬は「誰だ」と叫んだ。すると1人の役人が障子を開け部屋に入ろうとしたが、身構える2人を見て引き返す。
 この後に続いた「ミシミシ」と階段をのぼる音。少し間が開いたので、お龍に隣のまた隣の部屋の襖を開けさせたところ、提灯と槍を持った10人ほどの役人でぎっしりの状態だった。
 うち1人が、「お奉行の上意(命令)だ。神妙にしろ」と語調も激しく迫ってきたので、「何をいう、わしらは薩摩藩士じゃ」と返した龍馬だったが、「問答無用」と役人が次々襲いかかってきた。
「やられる」と思った瞬間、龍馬の手に持つ拳銃が「パン、パン、パン」と数発、火を噴いた。かん高い音に驚き、後ろへと引いた役人。あとの床には数人が倒れ、うち2人は完全に息絶えていた。
 建物は当時のまま、壮絶な戦いで有った様で、刀の傷跡、龍馬が打った銃弾の跡が生々しく残って居ました。

 午後3時からは松下資料館訪問、館長の遠藤氏が笑顔で迎えてくれ、早速遠藤氏より、人間を伸ばす心得をお話し頂きました。

 1.人間は全てを生かす→王者である
 2.順応同化→全ての自然
 3.人間とは→ダイヤモンドの原石である
 4.持ち味を生かす→成功は人々異なる
 5.自分に与えられた天分を生かす→強く心に願う
 6.自分がやって居る事を好きに成る→素直な心
 7.やる事を社員に考えさせる→社員全員が社長の気持ちを
   持たす
 8.主座を保つ→考え方、意見を変えてみる
   以上八点を特別に細かく説明を頂きました。

 後の時間は資料館の要所々のビデオを見せて頂き、特に素直なブースで時間をかけ素直な心の難しさを体感致しました、まだまだ時間が足らず再度の訪問を致したいと思って居ります。夕食は先斗町の鴨川の涼床で頂き京料理を堪能致しました。

 翌日22日は霊山歴史資料館訪問、おりしも館内の展示物は新撰組の生い立ちを展示致して居りました。
 新撰組の同志の方は百姓、町民の方が武士を夢みて集まった人達が大半で京都の都を見守る今の警察の役目を請け負って居ました、特に新撰組が名をはせたのは寺田屋事件からです、中でも館内のビデオで見た沖田総司の生き様に感銘を致しました、沖田は近藤が捕まり打ち首にされた後も自分の役目で有る幕府を守る為壮絶な戦いを続けて居たが一発の弾丸で命を絶つまでの自分の信念を曲げず此れ以上戦いを続けても負けると知りながら自分の意思を貫いた男で有った。

 次に新撰組の屯所で有った八木家に向かいました、其処で芹沢一派と近藤一派の戦い(無論此れは京都所司代の命令により芹沢の暗殺の為で有る)小さな家での壮絶の戦の後、近藤が新撰組隊長として此の後、寺田屋、池田屋事件などで名をはせて京都の町を守る一大組織に成って行ったみたいです、壬生寺をお参りし二条城に向かいましたが、大門は工事中で残念でしたが中の二条城の豪華さは何時見ても豪華其の物です、中に入り体制奉還の部屋には蝋人形を置き其の当時の様子が伺い取れます、襖絵はどの部屋も狩野派の豪華な絵が描かれ、其の当時の将軍の力の凄さを感じ取れます。

    

 翌朝、お土産を買って岐路に着きましたが今回の訪問は新撰組に非常に興味を抱いた偉人館巡りで有り勉強会した。
平成28年7月23日
目次へ