第 296 号
偉人館巡り in 京都
はじめに
 今回、私たちは2泊3日で、京都へ偉人館巡りに行く機会を得た。これまでに何度か京都へ行ったことはあったが、どれも仕事だった。久しぶりに京都を満喫出来たのは、中学3年の修学旅行以来だった。おかげで当時では気付かなかった京都の新発見も多々あった。

7月21日 (1日目)
 1日目は、ちょうど日本列島が梅雨明けしたところで、36と大変な暑さであった。生まれて初めて、真夏の京都を体感した。まるで刺すような日差しであった。路上の信号機も多かった。市内は碁盤を模した都市計画を採用しているだけあって、十字路、T字路が多かった。だから信号機が多いというわけである。もう一つは、赤信号であっても左折は通行が可能となる場合があるという交通ルールである。これも碁盤を模した構造上可能なのだろう。京都の特別な事情を理解するのに少し手間取った。 私たちはそうこうする内に、あっという間に寺田屋に着いた。

寺田屋
 かつて坂本龍馬は、薩摩藩の紹介で寺田屋を京の宿として利用していた。梅ノ間は当時龍馬が愛用していた部屋で、慶応二年(1866)1月23日、幕史の襲撃を受けた時も、この部屋に泊まっていた。この時、負傷しながらも脱出に成功し、薩摩藩に保護されたと伝えられている。そのようなエピソードがあった梅ノ間を拝見する機会があった。
 面白かった点は多々あった。襲撃された後、身を潜めていたとされる材木小屋の当時の写真が飾ってあったことは、私の想像力を大いに掻き立てることになった。また、部屋の壁、障子、畳は何度も取り替えられていることは容易に想像出来たが、柱や襖、床の間、庭側の廊下は150年間の年季を十分に感じさせるすばらしい部屋だった。
 そして、龍馬の応戦した時に当たったとされる柱のピストルの弾痕である。その形状から推測するとそんなに弾丸は入ってなく、どちらかといえば、めり込んだに近いだろう。ただ一つ残念だったことは弾痕を今までの観光客が触ってしまい、丸くなってしまったことだ。そしてその弾痕から発射位置を推測して見た。ここで一つ疑問が湧いた。
 梅ノ間は約六畳である。龍馬が応戦した時は左手でピストルを撃ったと伝えられている。そして、弾痕の位置から計算すると床の間の隅辺りだと推測出来る。さらに、左手親指を深く切られて、その後後遺症に悩まされた程だったと伝えられていることを考えると、龍馬は幕史との間合いを考慮出来なかった、つまりかなり動揺していた。しかも事前に妻のお龍が入浴中のところ、裸で幕史がやって来たことを伝えに来たにも関わらずである。龍馬は間合いを取りながら守るくらいの作戦は採れたはずである。すると、かの北辰一刀流免許皆伝の腕前はいかがなものだったのかという疑問である。事実、その腕前を大いに振るったという記録もない。それは一定期間の修行をすれば、免許皆伝が認められるといった程度のことだったかもしれない。
 次に1階に降りて、龍馬の妻・お龍が龍馬襲撃事件当夜に使用していたという風呂を見た。そこから龍馬のいる梅ノ間は階段を上がるとすぐ左である。お龍は裸でその階段を駆け上がり、龍馬に幕史がやって来たことを告げたと伝えられている。風呂から梅ノ間までは数メートルである。お龍が裸で階段を駆け上り、危険を龍馬に告げた光景が非常にリアルに見えた。
 ところでこの寺田屋、なんと現在宿泊可能である。もちろん泊まれる部屋は2階の梅ノ間以外の5部屋である。料金は素泊まりで、6,500円(朝食付き / 別途500円)である。入浴は出来ないようである。次回はここで宿泊し、夜の寺田屋も満喫し、事件当夜の光景に思いを馳せたい。

松下資料館
 次に向かったのは、松下資料館である。ここは今回のメインの場所である。いやしくも四国政経塾で松下幸之助を学ぶからには、一度は訪問しなければならないと思っていた施設であった。私の思いが叶った訪問となった。
 場所は京都駅から徒歩5分以内という超好立地にあった。施設は大変大きく、美しい大理石の造りで、中はとても静かであった。入館料は無料で、事前予約が必要である。
 エントランス付近のガードマンに2階へ促され、受付で手続きを終えると、現れたのは館長の遠藤氏であった。
 現在、四国政経塾で採用されている教材は、この遠藤氏お手製のものである。だからこそ一度お伺いしたいと思っていた。幸いにしてこの度知己を得た。
 私たちはあいさつもそこそこに、ある一室に通された。そこで遠藤氏による軽い講義が始まった。私は初めてDVDで塾主・幸之助の肉声を聴いた。否、正確には思い出したという方が正しかったかもしれない。なぜなら、塾主は私が小学校5年生の時に亡くなっているからだ。子供の頃に一度は肉声を聴いたことがあるはずなのだ。だが、余り思い出せなかった。
 しばらく聴いた声の印象から、塾主は意志が強く、自信に満ち溢れた大企業のトップたる風格を備えた存在感のあるリーダーに見えた。私は感動した。私が生涯目指すべきリーダーとはこのような方でよかったからだ。しかしながら、このような塾主の存在感は、現代のリーダーには余りも持ち合わせてはいないものだとも思えた。
 次に遠藤氏に通された場所は、塾主の足跡をたどるフロアだった。そこは塾主の思い出の写真や、とても長い年表、そして多くの肉声も貯蔵されていた。私はもう一度、塾主の肉声を聴いた。やはり肉声には力があった。もっと肉声を聴いてみたいと思ったが、時間が許さなかった。
 遠藤氏はまた次の部屋に私たちを案内した。そこはいわば、「素直な心」になるための部屋だった。DVDで素直な心の十箇条を視聴した。そして、遠藤氏から「素直な心」を考える自己分析チェックシートを頂いた。早速、帰宅したら取り組んで見ようと思っているが、果たして自分はどれだけ「素直な心」を持っているのか心配になった。また予定の時間が来てしまった。
 今回、当資料館での滞在時間が短か過ぎた。松下幸之助塾主が中途半端になった。今後自分で通って、将来のために当資料館を活用してもいいと思った。私たちは遠藤氏と別れ、その場を後にした。この後遠藤氏を囲んで晩餐を催した。
                                                       1日目終了
7月22日 (2日目)
 2日目も朝から暑かった。街では外国人旅行者が数多く闊歩していた。彼らの存在は、古都・京都の風情には若干ミスマッチであるとさえ思えて来た。日本人を探すことの方が難しく思えた。しかしながら、多くの外国人旅行者が日本に興味関心を持って来日して頂けることは真に嬉しい限りである。
 またタクシーも多かった。適当に客を拾うタクシーに苛立ちを感じながら、龍馬の墓と霊山歴史館の近くまで来た。

龍馬の墓と霊山歴史館
 そこは霊山歴史館を中心に様々な史跡で成り立っている一大観光スポットになっている。その一つに龍馬の墓があり、私たちは先んじてそこを参拝した。
 実際、龍馬の墓とされながらも龍馬の他に、中岡慎太郎や桂小五郎をはじめ、「池田屋事件」や「禁門の変」などの殉難者の墳墓もあり、数にして3116柱の志士たちが眠る広大な墓地となっていた。
 坂本龍馬と中岡慎太郎は並んで祀られていた。私は小さな鳥居をくぐり、地域から日本の社会を変えることを墓前で誓った。その後鳥居から出ると不思議な感じがした。これまで私は随分と坂本龍馬や中岡慎太郎について学んで来たはずだったが、参拝し終えると、確かに彼らは150年前の京都で活躍し、散って行った者として実感出来、そして熱いものが込み上げて来た。龍馬と慎太郎の息づかいが感じられた。
 私たちはゆっくりと急な階段を下り、真夏の京都を体験しながら、次の霊山歴史館へ向かった。そこは黒船来航から明治維新までを扱った総合博物館だった。私は2階の廊下の隅で、小さな銅像に気付いた。松下幸之助塾主であった。私は後で、初代館長は松下幸之助塾主ということに驚いた。ようやく私は、四国政経塾・塾生がこの時代の偉人を学ぶ縁がここにあることに納得出来た。
 そして、見学して一番嬉しかったことは、私の卒業した大学の学祖・山田顕義の名が記されているボードを発見出来たことだった。これまで様々な幕末の資料を見学したが、この名が記されているのはここだけだった。私もまた、四国政経塾で学ぶ不思議な縁があることに感動した。

八木家
 次に向かったのは、新選組発祥の地・八木家である。時間はとっくに正午を過ぎ、気温はぐんぐん上がって行った。私の意識はもうろうとした。どこからか女性の語り部が現れた。私は指示されるまま、建物の中へ入って行った。
 八木家はいわゆる旧家であった。この奥座敷で、新選組隊士・芹沢鴨が暗殺されたことで知られていた。
 すでに先客が何人かいた。女性は口承を始めた。新選組の語り部が女性とは意外だった。口承は中々に雄弁で、私が座っている辺りを指したり、奥座敷で芹沢が殺された当時の様子などを詳しく語った。おかげで自分がその犯行現場に乗り込んだかのような気分になった。ちょうど奥座敷の梁に事件の時の刀傷を確認出来た。一つはたくさんの観光客が触ってしまい、寺田屋の弾痕と同じように跡が消えていた。もう一つは透明のカップで保護されていたのでよく分かった。私は他にも当時の様子がうかがえる証拠はないかと探したが、特には見つからなかった。私たちは見学料とセットになっていた抹茶と屯所餅を頂き、その場を後にした。

二条城
 2日目の最終地点は、京都観光の定番である二条城である。私が最後に来た時は、中学3年の修学旅行だった。だから記憶もおぼろげであった。あれから20年以上の歳月が経った。私は社会人になって、京都に来る機会は何度かあったがここへは来なかった。
 私たちは出入り口の隅で入場手続きを済ませた。入場すると、若干記憶にあったきらびやかな門が見えた。私たちはそこから真っ直ぐ二の丸御殿へ向かった。
 中は何となく懐かしい感じがした。順路を進むと大広間一ノ間に来た。ここは大政奉還を行った部屋であり、リアルな大名の人形が数多く配置されていた。歴史的な場面の雰囲気は良く伝わって来たが、学校の歴史の教科書に載っていた絵と随分違って見えた。しかしまた何やら懐かしい感じもした。ちょうど中学3年の時も同じ印象を得たことを思い出した。私はしばらくその場から動けなかった。
 私たちは残りの部屋を見て回った。各間の壁、天井、襖、屏風、そして廊下の天井に描かれている絵は、どれも芸術性の高い物ばかりで、当時の歴代権力者のこだわりがダイレクトに伝わって来た。ただ一つ残念だったことは、それらの絵の状態が悪く、傷みが激しかったことである。しかし中学3年の時に見た絵と同じであろう。もう一度、ここへやって来れたことは本当に感慨無量であった。
 私たちは出口に通じる通路に従って、二の丸御殿を出た。しかしながら、二条城は想像以上に広く感じた。私は案内地図を見ると、左側に本丸御殿を見つけた。次回はそこへも行って見たいと興味が湧いた。
                                                       2日目終了
7月23日 (最終日)
 私たちは、朝食を済ませ、ゆるゆるとホテルをチェックアウトした。後は愛媛に帰るだけである。ようやく帰路についた。途中、様々な思いが去来した。京都はまだまだ広くて、奥が深い、また京都へ行きたいと思った。幸い、松下資料館館長の遠藤氏との知己を得た。これで京都へ行くきっかけが出来た。これから京都が増々面白いに違いない。
平成28年7月23日
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