第 303 号
京都訪問
 今回の京都訪問は125() 28() 34日の長期訪問です。今回訪問の主な目的は、2年程前から上島町弓削島のあら塩が京都・東寺を通して天皇陛下に献上する行事に参加させて頂いており、訪問した際、砂原長者様にお会いさせて頂いておりましたが、その砂原長者様も91歳を迎えご高齢の為、少し心配で表敬訪問にと弓削島の村上さんからお誘いがあり長者様にお会いする事になりました。当初の話では、東寺へ訪問し長者様にお会いする事と松下幸之助資料館への訪問予定でしたが、何時も訪問する際、時間に余裕が無く中途半端に終わっている様に感じていた為、長い時間を掛け京都まで行くのであればと欲を出し東寺・松下資料館の他、京都を沢山見て回ろうと34日の京都訪問になりました。

 25()、朝塾を9時出発。道中今までに京都へ訪問した事など話しながら京都へ向かっていたのですが…。予定では、松下資料館へは27日午後から訪問する予定で資料館の遠藤館長に連絡を入れていたのですが、午後2時頃には京都へ入れるので予定を変更できるのか、遠藤館長に連絡を入れました。ちょうど3時から他の予約が入っていたのですが、快く日程変更に応じてくれました。途中サービスエリアで昼食を済ませ松下幸之助資料館へと向かいました。

 午後2時頃、松下幸之助資料館に到着。何時もの様に資料館へ入ると、快く事務局の方が出迎えて下さいました。挨拶を交わし早速、遠藤館長から松下幸之助塾主の考え方、物の見方をお話して下さいました。
 お話の中で学んだ事は、物事が上手く行かない時には原点に返りもう一度考え直す事の大切さです。

 ・固定観念に縛られない事
 ・白紙の状態、ゼロからのスタートで考える事
 ・時を待つことの大事さ
 ・素直な心で力を蓄える事

 私は、物事が上手く行かない時、ここまでやって来たのだからと、その時点で何が足らないのかを考えていました。これからは悩んだ時、上手く行かなかった時、何事も原点に戻り、原点を忘れず行動したいと思います。
 遠藤館長の講話の後、館内の映像ブースをゆっくりと見て回りましたが、映像ブースではかなり時間が必要です。また何度か訪問して学び、自分なりに勉強したいと思っています。今回は、お忙しい遠藤館長に急なお願いで時間を空けてもらい有難う御座いました。3月に来塾して下さる事をお約束したので楽しみにお待ち致しております。

 午後4時過ぎ資料館を出て、祇園街へ向かいました。何故祇園街か…? 以前訪問したのですが、到着時間も遅く宿泊だけで祇園街を見ていなかったためです。祇園街は、祇園商店街を抜けると八坂神社があり、また祇園商店街の路地には、花見小路という祇園情緒のあるお茶屋の家並みが続き、地面は石畳みでどこか懐かしく風情あふれる景観が残っています。
 先にホテルへcheck inして、八坂神社へ向かいました。辺りは薄暗くなり入口西桜門の鳥居はライトアップされていて鮮明に残っています。
 八坂神社は、祇園社・祇園感神院などと称していましたが、神仏分離にともなって明治4年に“ 八坂神社 ”と改称されました。境内には疫病よけの神さまの、蘇民将来を祀る疫神社などの摂社や、縁結びの大国主社、商売繁盛の蛭子社、美容の美御前社、厳島社、太田社などの末社がたちならび厚い信仰を集めているそうです。また、1100年余の伝統を有する八坂神社の祭礼である祇園祭は、日本を代表する祭りとして世界的にも関心があります。境内入口付近は屋台が数店出ていました。奥へ進むと昼間の神社と違った雰囲気で、辺りはすっかり暗くなり、境内の本殿や舞殿などはライトアップされていました。八坂神社を出て、祇園商店街を探索する事に…。商店街を歩きながら雑貨や京土産のお店等を回り探索し、花見小路と言われる路地を探索する事に、花見小路は、北は三条通りから南は安井北門通りまで約1kmあり、祇園の中心を通るメインストリートです。四条通りを堺に北側と南側で別れ、雰囲気は大きく異なると言われています。北側は居酒屋などのテナントビルが立ち並び、 南は由緒あるお茶屋や料理屋が立ち並んでいます。今回は、その南側の祇園情緒あるお茶屋の家並みが残る花見小路を歩きながら夕食店を探し、1日目は祇園・蕪屋で夕食です。予めネット上で食事処を探していたのが蕪屋でした。南側は由緒あるお茶屋や料理屋と説明があるように、ほとんどと言っていいほどコース料理の店が並んでいましたし、予約制で入れそうにもありませんでした。結局、事前に調べていた蕪屋を見つけたものの、席が空いているのか心配でしたが入る事が出来ました。店の雰囲気は私的には凄く良い感じで、料理はやはり祇園、田舎の地元とは違い少々お高め、でも値段を気にして食べてもせっかくの料理が不味くなるので、ちょっとは贅沢しても良いのでは…と、美味しく料理を頂きました。

    

 26()、朝10時ホテルをcheck out 、護王神社に向かいました。護王神社に行こうとした理由は、足腰の守護神として全国から多くの参拝者があると知り、随分と長期になりますが、大和田塾頭が脚を悪くし病院に通っても原因が分からず未だに治っていません。以前よりは少し良くはなっていますが、塾頭のためにも是非お参りに行かなくてはとお参りする事にしました。
 護王神社では、表門ではなく喜多門から入ったのですが、大きな銅像が目に留まりました。台座には「和気清麻呂公像」と記されていました。銅像の背後には、大きな岩が置かれていて、さざれ石と記されていて、その岩は国歌「君が代」に詠まれる「さざれ石」だそうです。大きさは幅3m、高さ2mもの大きな巌でした。護王神社は足腰の神社と聞いていましたが、拝殿には狛犬ではなく、狛猪があり、表門をくぐり正面を出ても狛猪、しかし表門の頭上には足腰御守と掲げられています。何故狛犬でなく狛猪なのか?
 護王神社は平安京の建都に貢献された和気清麻呂公 ( わけのきよまろこう ) をお祀りしている神社です。足腰の守護神として広く崇敬されています。護王神社は、和気氏の創建による高雄山神護寺の境内に清麻呂公の霊社として祀られ、古くから「護法善神」と称されていました。江戸時代末の嘉永4 ( 1851 ) 、孝明天皇は清麻呂公の歴史的功績を讃えて正一位護王大明神の神階神号を授けられ、明治7 ( 1874 ) には「護王神社」と改称。明治19 ( 1866 ) 、明治天皇の勅命により、京都御所蛤御門 ( はまぐりごもん ) 前の現在地に社殿を造営して、神護寺境内からご遷座。後に姉君の和気広虫姫 ( ひろむしひめ ) も主祭神として合わせ祀られています。

 奈良時代の末、当時の実力者・弓削道鏡が偽のご神託によって、天皇の位を我が物にしようとした事件が起こり、清麻呂公は真のご神託を奉じてこれを阻止しましたが、道鏡によって足の腱を切られ立つこともできなくなった上に九州の山奥に流刑となりました。九州へ下る途中に道鏡の刺客に襲われますが、突然山の中から現れた300頭もの猪が現れ、猪たちは清麻呂公の輿 ( 乗り物 ) の周りを囲み、道鏡の刺客から守りながら道案内をしました。その後、清麻呂公が悩んでおられた足萎え(あしなえ)は不思議と治り、清麻呂公は立って歩くことができるようになったと伝えられています。この故事により、護王神社は足腰の守護神として広く崇敬されています。また、境内の狛猪は、300頭の猪によって難事を救われたとの伝説から、明治23 ( 1890 ) から狛犬の代わりに“ 狛猪 ”が置かれていて「いのしし神社」とも呼ばれています。境内にはその為か猪のコレクションが数多くあり、神社においてある手水舎も猪でした。この手水舎は猪の鼻をなでると幸せが訪れると言われていて、参拝者に親しまれているようです。

 護王神社を出て、次は西本願寺へ。西本願寺の境内に入るととても広く、次に東寺へ入らなくてはならないため、時間がなく全て見て回る事が出来ませんでした。まず、阿弥陀堂から御影堂を見て回りました。
 阿弥陀堂は、本尊である阿弥陀如来像を安置しているところから阿弥陀堂と称していて、高さ25m、東西42m、南北45m。中央には本尊阿弥陀如来の木像、左右にインド・中国・日本の念仏の祖師七師と聖徳太子の影像が安置されています。現在の阿弥陀堂は、江戸時代の宝暦10 ( 1760 ) 12年の歳月をかけて再建されたものだそうです。
 御影堂は、親鸞聖人の木像 ( ご真影 ) が安置されていることから、御影堂と称され、元和3 ( 1617 ) の火災で焼失しましたが、寛永13 ( 1636 ) に再建されました。高さ29m、東西48m、南北62m。正面に掲げられている見真の額は、明治9 ( 1876 ) 1128日に明治天皇より親鸞聖人に贈られた大師号です。内部は外陣と内陣に分かれ、外陣は多くの門信徒が参拝できるように、特に広く作られています。また、重要な行事はこの御堂で行われます。次はいよいよ、主たる目的であった東寺へ。

 西本願寺を出て東寺へ。上島町弓削島の村上さんと東寺で合流。砂原長者様の随行でおられる山本様も出迎えて下さり、挨拶を交わし砂原長者様に会う為、着くなり早々砂原長者様のお部屋へ向かいました。
 砂原長者様のお部屋に入ると、元気なお姿の長者様が出迎えて下さいました。個々に手土産を渡し、塾からは地元のモナカを手土産に渡したのですが、長者様は、美味しそうに食べて下さいました。後で聞いた話だったのですが、長者様はモナカが好物だったそうです。驚いた事に、昨年お会いした時よりも、お元気になられた長者様にお会いでき嬉しい限りです。世間話ならぬいろんな話を交わし、笑いも絶えず、2時間程の対談でしたが、長者様との時間を過ごしました。また次回お会いできることを楽しみとし、何時までも、今と変わらずお元気でいられるようお祈りいたします。長者様との対談の後、長者様随行でおられる山本様が、東寺を案内して下さる事になり、東寺を見学する事になりました。
 まず最初に、五重塔に案内されました。以前訪問していた時に、大和田塾頭からブッタの骨は東寺・五重塔心柱の下に埋めてあると教えて頂いていました。山本様から五重塔の説明をして頂いている時、本当にブッタの骨が埋められているのかと質問しました。塔の上か、柱の下かは不明ですが、本来は何処からでも拝める仏舎利塔の中に収めている説が正しいのかも知れないと説明がありました。五重塔の内部は、心柱を大日如来に見立て、周囲の須弥壇上に阿閦如来、宝生如来、阿弥陀如来、不空成就如来の金剛界四仏と八大菩薩を安置していて、四天柱には金剛界曼荼羅諸尊が描かれています。須弥壇下心柱の土台 ( 床下 ) を見る事が出来ますが、心柱の模様がズレていて説明によると、五重塔は各層ごとに最上層まで繰り返す積み上げ構造で木材も切り組や単純な釘打ち程度で建てられています。模様のズレは、積み上げられた塔は乾燥等で収縮しますが、独立した心柱は収縮しない為、ズレが生じ、そのズレを直すため、約50cmほど心柱を切り下げたために須弥壇下の心柱の模様がズレているそうです。
 次に、金堂・講堂を案内して下さいました。講堂では立体曼荼羅を見学できます。立体曼荼羅の配置は、大日如来を中心に五知如来、右側には不動明王を中心に五大明王、左側には金剛波羅蜜多菩薩を中心に五大菩薩、四方には四天王、梵天、帝釈天の仏像が安置されていました。山本様からの説明の中で、建物の柱の下に四角い穴があるのですが、この穴は柱と天井の横柱の調整の為の穴だと説明があり、奈良の大仏殿の柱の穴も同じで、調整するための穴だと聞きました。奈良の大仏殿の柱の穴は、大仏さまの鼻の穴と同じ大きさの穴があいた柱で、この穴をくぐり抜けるとご利益があると言うことを修学旅行で聞いていました。また、ご利益のために開けられたものではなく、この柱の方角が鬼門に当たるため、柱に穴を開けて、邪気が穴を通って抜け出すようにしたらしいという説もあるそうですが、山本様から柱の穴の説明を聞き、皆で顔を見合わせ思わず笑ってしまいましたが、子供の頃の感動が薄れたのと同時に驚いてしまいました。講堂の後も普段拝観できない所を案内して頂きましたが、山本様にはお忙しい中、案内して頂き有難う御座いました。あっという間に時間が過ぎ、東寺を出てホテルへcheck inして、少し休憩をとり夕食に出掛け東寺の話に盛り上がりました。

 27()、この日は3ヵ所回る予定で10時頃にホテルを出て金閣寺へ…。
 1994年に世界文化遺産に登録された金閣寺の歴史は、お釈迦様の舎利 (お骨) を祀った舎利殿「金閣」が特に知られ、金閣寺と呼ばれていますが、正しくは「鹿苑寺」と言います。鎌倉時代に西園寺公経の別荘「北山第」が在りましたが、足利三代将軍義満が気に入り、応永4 (1397) に西園寺家から譲り受け、山荘「北山殿」を造りました。金閣を中心とした庭園・建築は極楽浄土をこの世に現したと言われていて、金閣のある鏡湖池を中心とし、大小の島々や、当時の諸大名がきそって石を献納した名石が配されています。
 室町幕府は中国 (明国) との交易を盛んに行い、北山文化の中心地として発展。義満没後、遺言により夢想国師を開山 (初代の住職) とし義満の法号鹿苑院殿から二文字をとり、鹿苑寺と名づけられました。
 舎利殿 (金閣) の二層と三層は、漆の上から純金の箔が貼っていて、屋根は椹の薄い板を何枚も重ねたこけら葺き、上には鳳凰が輝いています。一層は寝殿造りで法水院、二層は武家造りで潮音洞とよばれています。三層は中国風の禅宗仏殿造りで究竟頂とよばれ、室町時代の代表的な建物だそうです。昭和62 (1987) 秋に、漆の塗替えや金箔の貼り換え、更に天井画と義満像の復元を行い、また、平成15 (2003) 春には、屋根の葺き替えが行われました。
 やはり名所と言われるだけあって観光客が多かったのですが、総門をくぐり、先へ進んでいくと、金閣のまわりに広がっている池が現れ、池は鏡湖池と言われ文字通り、湖面が鏡のように金閣を映してくれます。この日は天候もそこそこ良く湖面に美しく映し出された舎利殿を見る事ができ、気がつくと写メを撮るのに必死になってしまいましたが、無事見事に撮る事が出来満足でした。

 次に向かったのは、銀閣寺です。銀閣寺は、臨済宗相国寺派に属する禅寺で、建立は文明4 ( 1482 ) 室町幕府八代将軍の足利義政によって造営された山荘東山殿を起原とし、義正公は、祖父にあたる三代将軍足利義満公の北山殿鹿苑寺 ( 金閣 ) にならい、隠栖生活を過ごすため、山荘東山殿を造営。この東山殿が銀閣寺の発祥です。銀閣寺は俗称であり、義政の没後、臨済宗の寺院となり義政の法号慈照院にちなんで慈照寺と名付けられ、正式名称を東山慈照寺といい、銀閣寺の名の由来は江戸時代、金閣寺に対し、銀閣寺と称せられることとなったといわれています。

 拝観料を済ませ入口を入ると、総門から中門への参道は両脇に銀閣寺垣と呼ばれる参道が出迎えてくれます。この緑の垣根は垂直にそびえ立っていて、高さが6m~7m位あり外から遮断された感覚になり、参道の先はどうなっているのだろうと独特な雰囲気がありました。鹿苑寺の舎利殿 ( 金閣 ) 、西芳寺の瑠璃殿を踏襲し、本来観音殿 ( 銀閣 ) とよばれ、観音殿は二層からなり、一層の心空殿は書院風。二層の潮音閣は板壁に花頭窓をしつらえ、桟唐戸を設けた唐様仏殿の様式です。庭には、白砂を段形に盛り上げた銀沙灘や円錐台形の向月台があり、銀沙灘は月の光を反射させるためとか、向月台はこの上に坐って東山に昇る月を待ったものだとかの俗説がありますが、創建当初からあったわけではなく、江戸時代中期頃から造られたと伝えられているそうです。

 次に向かったのは、伏見稲荷大社です。伏見稲荷大社は、全国に30,000社あると言われ、全国各地で老若男女を問わず親しまれている「お稲荷さん」その総本宮が「伏見稲荷大社」です。楼門の手前に大きな鳥居が出迎えてくれます。鳥居の大きさの迫力に思わず写メ撮る私でした…。表参道の一番鳥居から楼門、この建物は天正17 ( 1589 ) 豊臣秀吉の造営とされ、秀吉の母大政所殿の病悩平癒祈願が成就すれば一万石奉加する、と記したいわゆる「命乞いの願文」が伝来しています。しかし造営伝承と伝来文書との整合性については多少の疑問がありましたが、昭和48年に楼門の解体修理が行われたときに、願文の年次と同じ天正17年の墨書が発見されて、伝承の正しかったことが確認されました。神社の楼門の規模としては最も大きいものだそうです。
 本殿の背後に伏見稲荷大社の魅力でもある千本鳥居があります。何年か前に塾の行事で津和野に行った時、
日本五大稲荷のひとつである太鼓谷稲成神社へ行きましたが、その神社にも山腹に成就御礼に奉納された約1,000本の鳥居が九十九折れのトンネルとなっていて、朱塗りの鳥居を登っていくと本殿へ辿り着きます。太鼓谷稲成神社の鳥居の凄さに驚いていましたが、伏見稲荷の千本鳥居の凄さにも驚きでした。太鼓谷稲成神社の鳥居は一列ですが、伏見稲荷の千本鳥居はふたてに分かれていて、どちらから行けばいいのか?反射的に右側を進んでいたが、他の方々も右側に進んでいました。はたして進路的には間違っていないのかが疑問が残りましたが、隙間なく立ち並んだ鳥居のトンネルは、とても神秘的で不思議な雰囲気を感じます。

 伏見稲荷大社の後は、時間にまだ余裕があったので晴明神社へ行く事になりました。晴明神社は・魔除け・厄除けの神社。安倍晴明といえば平安時代の有名な陰陽師、その晴明を祀っているのが京都の晴明神社です。晴明神社の境内奥に、晴明公をお祀りする本殿があり、現在の本殿は、明治38年に建てられたものです。本殿の前には、安部晴明公像がありこの像は、神社が所蔵する安倍晴明公の肖像画を元に作成されていて、晴明公が衣の下で印を結び、夜空の星を見て遠く天体を観測している様子をあらわしているそうです。
 安倍晴明公は、孝元帝(こうげんてい)の皇子・大彦命(おおびこのみこと)の御後胤で、幼い頃から非常に多くの道に秀でていて、特に天文暦学の道を深く極められ、神道を思いのままに操る霊術を身に付けられていました。成人後、天文陰陽博士としてご活躍、天体を移り行く星や雲の動きを観察し、宮殿の異変や遠方での吉凶を言い当て、朝廷を始め多くの人々の信望を寄せられたと伝えられています。晴明公は、朱雀帝から村上、冷泉、円融、花山、一条の6代の天皇の側近として仕えられ、数々の功績をたてられます。村上帝に仕えておられた際には、唐へ渡り、はるか城刑山にて伯道仙人の神伝を受け継がれ、帰国後、これを元に日本独特の陰陽道を確立されました。日常生活の基準となる年中行事や暦術、占法はこの時に創られたものだそうです。
 神社の境内には、あちこちに五角形の星型の紋が多くあり、これは晴明桔梗と呼ばれる五芒星(ごぼうせい)で、この五芒星は、陰陽道では魔除けの呪符として伝えられています。印に込められた意味は、陰陽道の基本概念となった陰陽五行説である、木火土金水(もっかどごんすい)という五つの元素の働きを表し、あらゆる事象に対する霊力を持つ魔除けの呪符になっています。あっという間に時間が過ぎ、晴明神社で終わりにしてホテルへ…。この日は3ヵ所の予定でしたが、時間の余裕があったので4ヵ所回る事が出来ました。夕食はホテル内で済ませる事になり、帰る前日ともあって京都での思い出話に盛り上がり楽しい時間を過ごしました。

 28()、平等院へ寄り帰る予定です。朝10時にcheck out 平等院へ…。平等院は、永承7 ( 1052 ) 関白藤原頼通が、父 道長より譲り受けた別業を仏寺に改め、平等院としました。永承7年は末法初年に当たるとされ、末法思想が貴族や僧侶らの心をとらえ、極楽往生を願う浄土信仰が社会の各層に広く流行していました。その翌年の天喜元年 ( 1053 ) に平等院の阿弥陀堂 ( 鳳凰堂 ) が落慶し、堂内には、平安時代の最高の仏師定朝によって制作された丈六の阿弥陀如来坐像が安置されています。約1000年前に建立された建造物や仏像が今に伝えられ、世界遺産にも登録されています。鳳凰堂の阿弥陀如来坐像は、平安時代後期、天喜元年 ( 1053 ) に造られたそうです。鳳凰堂の中の周囲の壁には、52体の雲中供養菩薩像が掛け並べられていて、この菩薩像も天喜元年 ( 1053 ) に製作されたものです。南北コの字形に阿弥陀如来坐像を囲んで並んでいます。南北半数ずつ懸けられている菩薩像は、飛雲上に乗りいろいろな楽器を持っていたり、舞を舞ったり、持物をとったり、合掌したりしています。現在は、雲中供養菩薩像26体は鳳翔館に展示されています。鳳翔館は平成13 ( 2001 ) 3月に開館され、梵鐘、鳳凰1対、雲中供養菩薩像26体をはじめとし、平等院に伝わる様々な宝物類を保存するための博物館だそうです。鳳凰堂の懸けられた菩薩像や屋根上の鳳凰などが間近で見る事が出来ます。金閣寺の時もそうでしたが平等院も鳳凰堂は池の中に建てられていて、この日も天候に恵まれて鳳凰堂は宮殿の様に水面に美しい姿を映し出されていました。

 今回の京都訪問では、沢山京都を見て回る事ができ非常に満足のゆく訪問となりました。冬の京都は夏に比べ観光客が少し減っているかなと思っていたが、やはり多かったです。しかし、夏の京都と違い冬の京都では、外国人の着物姿が多く見られました。

 塾の行事として東寺へ訪問する事は出来たとしても、長者様にお会いしたり、長者様と写メを撮ったりなどは絶対あり得ない事です。また長者様の随行でおられる山本様に東寺を案内してもらうという事は非常に光栄な事であります。これも、村上様、大和田塾頭の人脈であり、大変感謝しております。長者様、山本様、並びに村上様、大和田塾頭に心より感謝致します、本当に有難う御座いました。

平成29年1月28日
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