第 308 号
東寺「弓削島塩の献上」訪問
 3月23日、24日と京都訪問、目的は東寺に弓削の荘の村上さんとの同行です。
 23日の夕方京都に着き、先だって四国政経塾を訪問下さった、松下資料館の遠藤館長にお礼に訪問する予定でしたが、着いた時間が遅くお会い出来ず心残りながら、ホテルに向かいチェクインし、塾生皆と夕食に向かいましたが、目的のお店が満席で、しかた無くホテル内のレストランで夕食を頂きました。食事を頂きながら明日の東寺の予定を皆で話をし、前回訪問時には、山本氏(東寺文化部主事、長者随行)の案内で東寺の見学をしましたが、明日は1時からの長者様に塩の献上なので、朝一番に東寺に入りイロイロな建物、仏像を見学し東寺の歴史を再度探索する様に致しました。
 東寺の歴史、建造物、仏像は下記の文章です。(フリー百科事典参考)

東寺(とうじ)は、九条町にある。真言宗の根本道場であり、東寺真言宗の総本山でもある。「教王護国寺」(きょうおうごこくじ)とも呼ばれる(名称については「寺号」の節を参照)。山号は八幡山。本尊は薬師如来。寺紋は雲形紋(東寺雲)。東寺は平安京鎮護のための官寺として建立が始められた後嵯峨天皇、より空海(弘法大師)に下賜され、真言密教の根本道場として栄えた。中世以降の東寺は弘法大師に対する信仰の高まりとともに「お大師様の寺」として庶民の信仰を集めるようになり、今も京都の代表的な名所として存続している。昭和9年に国の史跡に指定、平成612月には「古都京都の文化財」として世界遺産に登録された。

寺号
 この寺には「東寺」および「教王護国寺」という2つの名称があり、百科事典等でも東寺を見出し語とするものと教王護国寺を見出し語とするものがある。さらに正式名として「金光明四天王教王護国寺秘密伝法院」と「弥勒八幡山総持普賢院」の2つの名称がある。宗教法人としての登録名は「教王護国寺」である。「教王」とは王を教化するとの意味であり、教王護国寺という名称には、国家鎮護の密教寺院という意味合いが込められている。宗教法人としての名称が教王護国寺であるため、寺内の建造物の国宝・重要文化財指定官報告示の名称は「教王護国寺五重塔」等となっている。ただし「東寺」も単なる通称・俗称ではなく、創建当時から使用されてきた歴史的名称である。平安時代以降近世まで、公式の文書・記録等には原則として「東寺」という表記が用いられ、それが正式名称であり「教王護国寺」という呼称は特殊な場合以外には用いられなかった。平安時代の公式の記録や信頼できる文書類には「教王護国寺」という名称には一切見えず、すべて「東寺」である。正式の文書における「教王護国寺」の初出は仁治元年である。後宇多天皇宸翰の国宝「東寺興隆条々事書」(延慶8)、後宇多天皇宸翰「庄園敷地施入状」、豊臣秀吉が2,030石の知行を認めた大正19年の朱印状など、寺の歴史に関わる最重要文書にも明確に東寺と表記されている。現代においても、南大門前の石柱には「真言宗総本山 東寺」とあり、南大門、北大門、慶賀門などに掲げられた寺名入りの提灯には「東寺」とあり、宝物館の名称を「東寺宝物館」とするなど、寺側でも通常は東寺の呼称を使用している。 本項では以下「東寺」の表記を用いる。

歴史
 8世紀末、平安京の正門にあたる羅城門の東西に「東寺」と「西寺」という2つの寺院の建立が計画された。これら2つの寺院は、それぞれ平安京の左京と右京を守る王城鎮護の寺、さらには東国と西国とを守る国家鎮護の寺という意味合いを持った官立寺院であった。
 南北朝時代に成立した、東寺の記録書『東宝記』によれば、東寺は平安京遷都後まもない延暦15年藤原伊勢人、が造寺長官(建設工事責任者)となって建立したという。藤原伊勢人については、公式の史書や系譜にはその名が見えないことから、実在を疑問視する向きもあるが、東寺では古くからこの796年を創建の年としている。それから二十数年後の弘仁14年、真言宗の宗祖である空海(弘法大師)は、嵯峨天皇から東寺を給預された。この時から東寺は国家鎮護の寺院であるとともに、真言密教の根本道場となった。
 東寺は平安後期には一時期衰退するが、鎌倉時代からは弘法大師信仰の高まりとともに「お大師様の寺」として、皇族から庶民まで広く信仰を集めるようになる。中でも空海に深く帰依したのは後白河法皇の皇女である宣陽門院であった。宣陽門院は霊夢のお告げに従い、東寺に莫大な荘園を寄進した。また「生身供」(しょうじんく、空海が今も生きているがごとく、毎朝食事を捧げる儀式)や「御影供」(みえく、毎月21日の空海の命日に供養を行う)などの儀式を創始したのも宣陽門院であった。空海(弘法大師)が今も生きているがごとく朝食を捧げる「生身供」の儀式は、21世紀の今日も毎日早朝6時から東寺の西院御影堂で行われており、善男善女が参列している。また、毎月21日の御影供の日には東寺境内に骨董市が立ち「弘法市」「弘法さん」として親しまれている。
 中世以後の東寺は後宇多天皇・後醍醐天皇・足利尊氏・・など、多くの貴顕や為政者の援助を受けて栄えた。文明18年の火災で主要堂塔のほとんどを失うが、豊臣家・徳川家などの援助により、金堂・五重塔などが再建されている。何度かの火災を経て、東寺には創建当時の建物は残っていないが、南大門・金堂・講堂・食堂(じきどう)が南から北へ一直線に整然と並ぶ伽藍配置や、各建物の規模は平安時代のままである。
 昭和9313日に史跡に指定、平成612月には「古都京都の文化財」として世界遺産に登録された。

金堂
 国宝。東寺の中心堂宇で、諸堂塔のうちもっとも早く建設が始められ、東寺が空海に下賜された弘仁14年までには完成していたと推定される。当初の堂は文明18年の土一揆で焼失し、その後1世紀近く再建されなかった。現存の建物は慶長8年、豊臣秀頼の寄進によって再建したもので、奉行として片桐且元が任に当たった。入母屋造本瓦葺きで、外観からは二重に見えるが一重裳階(もこし)付きである。建築様式は和様と大仏様(天竺様)が併用され、貫や挿肘木を多用して高い天井を支える点に大仏様の特色が見られる。内部は広大な空間の中に本尊の薬師如来坐像と日光菩薩、月光菩薩の両脇侍像が安置されている。
 木造薬師如来および両脇侍像(重要文化財)金堂本尊。中尊の像高2.88メートル、台座と光背を含めた総高は10メートルに達する巨像で、中尊の光背には七仏薬師像を配している。台座の懸裳の下には薬師如来の眷属である十二神将像が配されている。仏師康正の作で、日本の仏教彫刻衰退期である桃山時代における佳作である。薬師如来像が左手に薬壺を持たず、坐法が左脚を上にする降魔坐である点、台座を古風な裳懸座とする点などに復古的要素が伺える。

講堂
 重要文化財。金堂の背後(北)に建つ。東寺が空海に下賜された弘仁14年(823年)にはまだ建立されておらず、天長2年(825年)空海により着工、承和2年(835年)頃完成した。当初の堂は文明18年の土一揆による火災で焼失し、室町時代の延徳3年に再建されたのが現存する講堂である。単層入母屋造で純和様である。金堂が顕教系の薬師如来を本尊とするのに対し、講堂には大日如来を中心とした密教尊を安置する。すなわち、須弥壇中央には大日如来を中心とする五体の如来像(五仏、五智如来)、向かって右(東方)には金剛波羅密多菩薩を中心とする五体の菩薩像(五大菩薩、五菩薩)、向かって左(西方)には不動明王を中心とした五体の明王像(五大明王)が安置されている。また、須弥壇の東西端にはそれぞれ梵天・帝釈天像、須弥壇の四隅には四天王像が安置されている。以上、全部で21体の彫像が整然と安置され、羯磨曼荼羅(立体曼荼羅)を構成している。これら諸仏は、日本最古の本格的な密教彫像であり、空海没後の承和6年に開眼供養が行われているが(『続日本後紀』)、全体の構想は空海によるものとされる。21体の仏像のうち、五仏のすべてと五大菩薩の中尊像は室町時代から江戸時代の補作であるが、残りの15体は講堂創建時の像である。これら21体の仏像の表す具体的意味について、かつては仁王経に基づく羯磨曼荼羅であると説明され、仁王経と金剛界法とを融合したものとも説かれるが、空海の真意が何であったかについてはさまざまな解釈があり、定説をみない。
五仏坐像(重要文化財)- 金剛界大日如来を中心とし、周囲に宝生如来、阿弥陀如来来、不空成就如来、阿閦如来を配す。大日如来像は明応6年、仏師康珍阿弥陀如来、不空成就如来不空成就如来、阿閦如来、阿弥陀如来、不空成就如来、を配す。大日如来像は明応6年、仏師康珍の作。宝生如来、不空成就如来、阿閦如来の各像は江戸時代の作で、阿弥陀如来像は頭部のみ平安時代の古像のものを流用し、体部は江戸時代の作である。「木造大日如来坐像 金剛界四仏坐像」として重要文化財に指定され、大日如来以外の4躯は重要文化財の附(つけたり)指定とされている。
五大菩薩坐像(国宝)-金剛波羅蜜菩薩(金剛波羅蜜多菩薩とも)を中心に、周囲に金剛宝菩薩、金剛法菩薩、金剛業菩薩、金剛薩埵の各像を配す。中尊の金剛波羅蜜菩薩像は江戸時代の作。他の4体は後世の補修が多いが、当初像である。一木造に乾漆を併用し、作風・技法ともに奈良時代風が強い。金剛波羅蜜像を除く4躯が「木造五大菩薩坐像4躯」として国宝に指定され、金剛波羅蜜像は国宝の附(つけたり)指定とされている。
五大明王像(国宝)-不動明王像を中心に、降三世明王、軍荼利明王、大威徳明王降三世明王、軍荼利明王、金剛夜叉明王像を配す。東寺御影堂の不動明王像とともに、明王像としては日本最古の作例である。
梵天坐像・帝釈天半跏像(国宝)-梵天 像は法隆寺などにある奈良時代の像と異なり、44臂の密教像であり、4羽の鵞鳥が支える蓮華座上に坐す。帝釈天像は甲を着け、白象に乗り、左脚を踏み下げる。両像の台座、帝釈天像の頭部などは後補である。
四天王立像(国宝)-4体のうち持国天像は表情に怒りをあらわにし、激しい動きを見せるが、他の3体(増長天、広目天、多聞天)の表現は抑制されている。多聞天像は後補部分が多いが、修理の際に後世の彩色を除去したところ、面部などは当初部分が良好に保存されていることが確認された。

食堂(じきどう)
 講堂の後方、境内の北寄りに建つ。初代の食堂は空海没後の9世紀末から10世紀初め頃にかけて完成したと推定されるが、文禄5年の地震で倒壊。2世紀以上後の寛政12年にようやく再建工事が始められた。この江戸時代再建の食堂は昭和5年に火災で焼失し、現在の建物はその後の再建で、昭和9年(1934年)に完成したものである。旧本尊の千手観音立像はこの時の火災で焼損したが、昭和40年から修理が実施され、現在は寺内の宝物館に安置されている。現在の食堂には明珍恒男作の十一面観音像が本尊として安置されている。

五重塔
 国宝。東寺のみならず京都のシンボルとなっている塔である。高さ54.8メートルは木造塔としては日本一の高さを誇る。天長3年(826年)空海により、創建着手に始まるが、実際の創建は空海没後の9世紀末であった。雷火や不審火で4回焼失しており、現在の塔は5代目で、寛永21年、徳川家光の寄進で建てられたものである。初重内部の壁や柱には両界両界曼荼羅や真言八祖像を描き、須弥壇には心柱を中心にして金剛界四仏像と八大菩薩像を安置する。真言密教の中心尊であり金剛界五仏の中尊でもある大日如来の像はここにはなく、心柱を大日如来とみなしている。諸仏は寛永20年から翌年にかけての作で、江戸時代初期の作風を伝える。初重内部は通常非公開だが、特別に公開される場合もある。
 初重内部の安置仏像は以下の通り(菩薩像の像名は寺伝による)
 ・東面 - 阿閦如来、弥勒菩薩、金剛蔵菩薩
 ・南面 - 宝生如来、除蓋障菩薩、虚空蔵菩薩
 ・西面 - 阿弥陀如来、文殊菩薩、観音菩薩
 ・北面 - 不空成就如来、普賢菩薩、地蔵菩薩

御影堂
 国宝。かつて空海が住房としていた、境内西北部の「西院」(さいいん)と呼ばれる一画に建つ住宅風の仏堂である。前堂、後堂、中門の3部分からなる複合仏堂で、全体を檜皮葺きとする。昭和33年(1958年)の国宝指定時の名称は「大師堂」であるが、寺では主に「御影堂」の名称を用いている。当初の堂は康暦元年の火災による焼失後、その翌年に後堂部分が再建された。10年後の明徳元年、弘法大師像を安置するために北側に前堂、その西側に中門が増築された。後堂(南側)には空海の念持仏とされる不動明王坐像(国宝、9世紀)を安置する。厳重な秘仏で非公開であるが、日本の不動明王像としては最古の作例の一つである。北側の前堂には弘法大師坐像(国宝)を安置する。この像は東寺の親厳の依頼により、天福元年運慶の4男康勝が制作したもので、空海の弟子の真如が描いた空海の肖像とほぼ同じといわれている。この像は庶民の信仰を広く集めており、像の前では、毎朝6時に「お大師様」に朝食を捧げる「生身供」(しょうじんく)が執り行われ、多くの参拝者が集まる。

その他の堂宇
大日堂
 平成12年に大改修を終えた。浜田泰介の障壁画がある。大日如来像を安置する。
 ・大日如来像(平安時代造)
毘沙門堂
 御影堂の南側にある。かつて羅城門の上層にあった、兜跋毘沙門天像を安置するために建てられた。兜跋毘沙門天(国宝)は現在宝物館に収蔵。京都の都七福神(毘沙門天)である。
灌頂院(重要文化財)
 境内南西隅に位置する。伝法灌頂(密教の奥義を師匠から弟子へ伝える儀式)、後七日御修法(ごしちにちのみしほ:正月の8日から14日までの間に、天皇の安泰を祈願する儀式)などの儀式を執り行うための堂で、内部には仏像は安置されていない。床は石畳になっており、土足厳禁となっている。
宝蔵(重要文化財)
 拝観入口の慶賀門の南側、掘割で囲まれた中に建つ。平安後期建立の校倉(あぜくら)造倉庫で、東寺最古の建造物である。
鎮守八幡宮
 南大門を入った左側にある。明治元年(1868年)に焼失後、1世紀以上を経た平成4年(1992年)に再建。東寺の鎮守神である僧形八幡神像と女神(じょしん)像2体を安置する。薬子の変薬子の変の際、空海はここで嵯峨天皇勝利の祈祷を行っている。
南大門(重要文化財)
 明治28年、三十三間堂の西門を移築したもの。九条通りに面しており、京阪国道口交差点から東へ約100mの場所にある。
蓮花門(国宝)
 鎌倉時代再建の八脚門。本坊西側、壬生通りに面して建つ。
小子房
 昭和9年に再建されたもの。内部は6個の部屋(鷲の間、雛鶏の間、勅使の間、牡丹の間、瓜の間、枇杷の間)からなる。各部屋の障壁画は堂本印象により描かれた。小子房の西の門は蓮華門と呼ばれ国宝である。
太元堂
 北大門を出た右側にある。鎮護国家を司るという大元帥明王と四天王を祀る。大元帥明王は憤怒の形相であるといわれている。
弁天堂
 北大門を出た右側にある。音楽・技芸・財産を司るという弁才天祀る。
東寺宝物館
 北大門を出た左側にある。春や秋の観光シーズンなどに、普段公開しない寺宝を展示する。

 午前中に東寺の境内をこまなく見学し、午後1時に村上さん一同と長者様のお部屋に案内頂き、先ず塩の献上を済まし、後、長者様との雑談を1時間程致し、今回はお邪魔した我々一人々と長者様と写真を撮らせて貰い、長者様の直筆の書を頂きました(家宝が出来ました)其の後、普段一般観光客は入れないお部屋を見せて頂き、充実した東寺滞在でした。
平成29年3月24日
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