第 309 号
京都訪問
偉人館巡り / 東寺『弓削島塩の献上』
 1日目、八木邸と三十三間堂を見学致しました。
 八木邸は幕末の文久3年(1863年)春、14代将軍家茂上洛にあたりその警護の為に上洛した浪士達は、ここ洛西壬生村に宿所を求めましたが、間もなく江戸に呼び戻されることになりました。しかしその中で当八木家を宿所としていた芹澤鴨、近藤勇、土方歳三、沖田総司、山南敬助、新見錦、原田佐之助、藤堂平助、野口健司、井上源三郎、平山五郎、平間重助、永倉新八の13名は浪士隊から分かれて京に残り、文久3316日八木家右門柱に、松平肥後守御領新選組宿という新しい表札を掲げ、ここに新選組が誕生したのです。
 当時、当家は11代八木源之烝應迅と申しました。その後しだいに隊士も増え当家では賄いきれず前川家や南部家にも宿所を当てていました。当家奥座敷は新選組三大内部抗争の一つ芹澤鴨暗殺の場で、文久3918日どしゃ降りの深夜芹澤鴨、平山五郎ら4人が斬殺されました。現存する刀傷の一部がその凄惨さを物語っています。こうして近藤が実権をにぎってから隊規も厳しくなり、又池田屋事件など新選組の最盛期を築きましたが、慶應元年(1865年)夏、壬生が手狭になってきたのを理由に西本願寺の太鼓番屋に屯所を移しました。その後、鳥羽伏見の戦いで敗れるまで壬生を洋式調練の場所にするなどして江戸に下る最後まで深い繋がりがありました。壬生に生まれ幕末京都の治安を守った新選組。あしかけ3年の新選組壬生屯所時代。これが真の新選組のすがたではないでしょうか。
 次に予定では、三十三間堂に向かうのですが、八木邸の隣に丹生寺が有り、境内に新鮮組の生い立ちとかが解る品物が数多く展示されています。中でも私は南春夫が歌言った新撰組の歌が気に入り歌って居ると他の塾生に恥ずかしいから止めてくれと注意を受けました。

 三十三間堂は正式名「蓮華王院」といい創建は1164年に平清盛によって造進されました。長さ120mの総檜造のお堂です。正面の柱間が33あるため通称三十三間堂と呼ばれています。中では1001体の千手観音像がおり、外国人観光客にたくさんの仏像が一度に見られると人気です。三十三間堂内にある1001体の千手観音像です。正式名称「十一面千手千眼観音」であり、全て本尊です。立像(重要文化財)は中央の巨像を挟んで左右に500体ずつ配置されており、124体は平安時代の創設時の物です。他800体は鎌倉時代の物です。中央の十一面千手観音坐像は鎌倉時代の名作で運慶の息子で湛慶(たんけい)作です。どれも金箔がはられておりとても美しいものです。吉田君は初めてでしたので、千手観音が千一体整然と並んで居る姿に感動の一言でした。

 2日目、3月に毎年恒例の弓削島の塩の献上に弓削の荘の村上夫婦と塾生3名の計5名で東寺へ、東寺に着くと山本氏が出迎えてくれ、砂原執事長の応接室に案内して下さり、無事献上を済ませる事が出来ました。
 私達は応接室でイロイロ、執事長のお話を聞かせて頂きましたが、塾生の吉田君が初めての訪問でしたので、私が山本氏のお願いし東寺の普段は入れない、部屋の見学に行き、大変貴重な部屋や襖絵を見学させて頂き、吉田君緊張気味でした。

           

      

 執事長のお話に中で四国八十八ヶ所は先ず東寺で「今から四国八十八ヶ所を回らせて頂きます」と拝み、最後に高野山で回って来ましたとお礼をするのですと聞き、早速、東寺で納経帳を買い、朱印を押して貰いました、私の足の具合が良く成れば再度四国八十八ヶ所を今まで回った気持ちと違う気持ちで回りたいと思って居ます。厳しスケジュールでしたが多くを知り良い勉強に成りました。
平成30年3月19日
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