第 313 号
中岡慎太郎館・絵金蔵訪問
 62日何度目かに中岡慎太郎資料館の訪問で有る。何故私は中岡慎太郎資料館を何度も訪問するかと言われる人も居ますが中岡慎太郎ぐらい民を思い、地域を思い、国の為に私心を捨てて、大きな志で行動し続けた人物は他には居ないのでは無いかと思うからです、志、素直、知識、知恵、を持ち自分を捨てて他人の為に行動し、地域を思い、国を思う行動に深く感銘するからです。もし此の記事を読んで疑問に思う人が居たなら、一度資料館に行ってみてください凄い人間味が解ると思います。
 其れは、私は新しい塾生が入塾し、先ず、志、自分の道、素直、知識、知恵で行動を起こす事を強く求めて、勉強会を進めているからです。細かい、内容は塾生が書いてくれると思いますので大まかに紹介すると下記の文章です。

 中岡慎太郎は、土佐国安芸郡北川郷柏木村(現・高知県安芸郡北川村柏木)に北川郷・大庄屋の長男として生まれる。幼少時より俊才の誉れ高く、18歳のころ武市瑞山(半平太)の道場に入門し、その後、武市が結成した土佐勤皇党に加盟して、本格的に志士活動を展開し始めた。
 文久3年(1863年)京都での八月十八日の政変後に土佐藩内でも尊王攘夷活動に対する大弾圧が始まると土佐藩を脱藩し、同年9月、長州藩三田尻(現防府市)に亡命。以後、長州藩内で同じ境遇の脱藩志士たちのまとめ役となり三田尻に都落ちしていた三条実美の衛士となるなど長州をはじめとした各地の志士たちとの重要な連絡役となっていった。
 元治元年(1864年)石川誠之助を名乗り上洛。薩摩藩の島津久光暗殺を画策したが果たせず、また脱藩志士たちを率いて禁門の変、下関戦争を長州側の立場で参戦し負傷。長州藩への冤罪・雄藩同士の有害無益な対立・志士たちへの弾圧を目の当たりにして、活動方針を単なる尊皇攘夷論から雄藩連合による武力倒幕論に発展させる。
そして、龍馬を含む誰よりも早く、長州藩の桂小五郎(木戸孝允)と薩摩藩の西郷吉之助(西郷隆盛)との会合による薩長同盟締結を倒幕のための第一の悲願として活動し始めた。

 有力公家の三条実美とも連絡を取りつつ脱藩志士たちのまとめ役として、薩摩と長州の志士たちの間を飛び回り、海援隊の坂本龍馬や三条の随臣を説得、活動に巻き込んで行き、慶応2年(1866年)1月、京都二本松薩摩藩邸において薩長同盟(薩長盟約)という歴史的転換点を結実させる事に成功した。
 その後、薩土同盟についても同様に東奔西走し、薩摩藩と土佐藩との間で、倒幕・王政復古実現のための薩土盟約が締結される。この盟約は長州藩の隣の安芸藩を加えた薩土芸三藩約定書に拡大発展。土佐藩を戊辰戦争において薩摩・長州・肥前と並ぶ倒幕の主要勢力たらしめ、その結果として土佐藩出身者を薩摩、長州、肥前出身者同様に幕末・明治をリードする主要政治勢力たらしめた。その後、長州の奇兵隊を参考に、自身を隊長とする陸援隊を京都に組織。また、この頃に討幕と大攘夷を説いた『時勢論』を著している。

 慶応3年(1867年)12月、京都・近江屋にて坂本龍馬を訪問中、何者かに襲撃され、瀕死の重傷を負う(近江屋事件)。龍馬は即死状態であったが、慎太郎は2日間生き延び、暗殺犯の襲撃の様子について谷干城などに詳細に語った後に絶命した。享年30であった。
 志の強さ、自分の道を素直に知識と知恵で行動した人物だと思います。中岡慎太郎会館を後にして、絵金蔵に向かいました。

 幕末の絵師。絵金は絵師金蔵を略したものです。
 1812年、高知城下新市町(高知市)に髪結いの子として生まれる。幼少時から画才があり、藩お抱えの絵師に師事し狩野派の画風を学びます。
 1829年、18歳の時に藩主山内侯息女徳姫の駕篭(かご)かきという名目で供に加えられ、江戸にのぼります。その江戸で本格的に狩野派を学び、3年後帰国。家老桐間家のお抱え絵師となり、林洞意を名乗ります。

 贋作事件で転落
 絵金の才能への嫉妬や反感からか狩野探幽の偽絵を描いたとした汚名での極刑を言い渡されます。(絵金が探幽の絵を手本として描いた絵を、彼の元に出入りしていた画商が無断で持ち出し、偽の署名落款をつけ売ろうとしたことが始まりだとも言われています)そして、絵金は身分を失い、狩野派を破門、城下を追放されてしまいます。

 足取り不明な時期を経て赤岡へ
 赤岡にたどり着いた金蔵は庶民の生活にまみれながら、格式や伝統の枠を破る独特の作風に開眼。絵金は赤岡の廻船問屋に嫁いでいた叔母を頼り、商家の旦那衆がパトロンになってくれたらしい。
 酒蔵を作業場に提供され、制作の日々を重ねた。両手に計六本の筆を持ち、屏風絵一枚なら一日で描き上げたとの逸話もある。「確実に絵金の作といえる屏風絵は、県内にわずか三十点ほどしかない。赤岡にはそのほとんどの二十数点が残されている」と指摘する。絵金が赤岡でいかに精力的に制作したかが分かる。
 泥絵の具も自ら開発した。中でも血しぶきに代表される赤色の鮮烈さは群を抜く。力強く、激しいの多用は、登場人物が浮かべる苦悶(くもん)の表情と相まって、見る者を圧倒する。江戸や上方の芝居浮世絵をぶっ飛ばす、絵金の迫力ある絵画力は、幕末土佐の庶民たちの素晴らしいエネルギーの表現であり、欲望にみちた永遠の人間ドラマの絵画である。

 1869年、58歳の頃弘瀬姓を名乗る。
 その後中風を患い右手の自由を失い、それからは左手で描き続け、生涯に多くの作品を遺しました。
 1876(明治9)年、65歳で没。
 人生の転落が生み出した唯一無二の画風。その作品は百数十年の時を超え、人々の心を引きつけてやまない。

 『芝居絵屏風』とは?
 芝居は、江戸時代、庶民の身近な娯楽でした。江戸末期の土佐で二曲屏風の大画面に描かれた独特の芝居絵が誕生しました。歌舞伎や浄瑠璃の演目の一幕を描いた屏風絵で、神社の夏祭りのために氏子が競って奉納したものだ。描かれたのは江戸時代末期から昭和初期にかけてのことで、高知では絵金こと弘瀬洞意とその多くの弟子達が赤岡をはじめ各地でその作品を遺した(他に高知市の朝倉神社、郡頭神社、南国市の河泊神社など)。百数十年もの間、赤岡の人々の生活と密着しながら受け継がれてきた絵金の屏風絵。そのほとんどは町内会ごとの共同所有で、個人宅の倉庫などで管理されてきた。絵金の屏風絵のほとんどは、町内の須留田八幡宮に奉納するために描かれた。七月の同八幡宮の夏祭りでは、氏子の商家の軒下に屏風絵がずらりと並ぶ。闇の中、ろうそくの明かりに浮かび上がる絵はより一層、その迫力と魅力を増す。
 幕末から続く赤岡の夏の風物詩だ。
 赤岡町北部に位置する須留田八幡宮。この神社の夏祭りでは現在も暗闇のなか、蝋燭の灯りで屏風絵がほのかに浮かび上がる、幕末当時さながらの幻想的な光景を見ることができます。現在赤岡町内に伝わる23点の芝居絵屏風のうち18点はこの神社に奉納されたもの。伝統的に夏祭りの夜は、神社から約1.5キロ程離れた商店街の氏子たちの家の軒先に点々と並べる風習が続いています。近年では街灯や自販機の明かりを消し、絵金が生きていた頃の暗闇が再現されています。

 『絵金祭り』(23の芝居屏風絵に加え、12点の絵馬提灯)
 あつい盛りの夏祭り、宵闇(よいやみ)せまる赤岡町の町並みの通りに面した町家の軒下に並べられた絵金の芝居絵屏風がロウソクの灯にゆられて浮かびあがる。力強い墨線に強烈な赤・緑・黄と泥絵具で彩色された二つ折りで約一間四方の芝居絵屏風。神社に奉納され庶民を楽しませる地芝居の絵画。太棹(ふとざお)三味線の音に義太夫が語る歌舞伎を題材にした芝居絵の屏風世界。

 百数十年の歴史を持つ赤岡の絵金まつり。
 幕末の異端絵師「絵金」の血しぶき飛ぶ屏風絵が、年に一度のお祭りの時だけ古い民家の軒先に点々と飾られ、怪しのムードが漂うお祭りです。夜になったら絵はロウソクの揺れる炎でライトアップされます。闇に照らし出される絵金の絵はさらに異彩を放ち、そのおどろおどろしさに泣き出す子供も・・・。

 絵金蔵の絵に圧等させられました。次回は是非時間を作り、赤岡町の町並みの通りに面した町家の軒下に並べられた絵金の芝居絵屏風がロウソクの灯にゆられて浮かびあがる絵金祭りを見に行きたいと思います。
平成30年6月2日
目次へ