第 314 号
中岡慎太郎館・絵金蔵訪問
 1回の偉人館巡りとして62日「中岡慎太郎館・絵金蔵」を訪問しました。
 四国政経塾では、松下政経塾・故松下幸之助氏の意志を引き継ぎ「地域から日本を変える」を塾の柱とし、松下幸之助氏の志・素直・知識・知恵等、様々な教えから自分を変える事により、自分の周りが変わりそして地域が変わる。まず自分を変えるには人を知る事、そして行動の大切さを常に学んでいます。
 その行動の大切さを学ぶには、この人物だろうと中岡慎太郎館を再度訪問する事となりました。大和田塾頭を含め私は何度目となるのか…、新しい塾生が入ると行動の大切さを学ぶため必ず最初の偉人館巡りは中岡慎太郎館を訪問します。

 2日、AM 900塾を出発し中岡慎太郎館へ。
 中岡慎太郎は、北川郷大庄屋の長男として生まれ命を賭して維新回天に尽力した幕末の志士です。京都の近江屋で坂本龍馬と会談中に刺客に襲われ重傷を負い2日後に亡くなり、わずか29歳と7ヵ月で生涯に幕を閉じました。ですが慎太郎が維新に果たした功績は計り知れません。薩長連合の実現、公家同士の協力体制の構築、薩土密約の締結、どれもが倒幕の大きな原動力となり、明治維新の礎と歴史が示しています。
 慎太郎は、激動の幕末期に身分を捨て、名を変え、死を賭してまで維新回天に命を燃やしました。慎太郎は、幕末の日本を駆け回る際、証拠を隠すため偽名を使い分けていました。近江屋で刺客に襲われた時にも偽名を使い坂本龍馬と会っていました。以前訪問した際に資料館の学芸員さんにも話を聞きましたが、龍馬の手紙は沢山残っていますが、慎太郎はいくつもの名前を使い分けていたため資料が少なく、人物も明らかにされにくく、慎太郎が偽名を使った手紙などが出てきても、その手紙が慎太郎自身の手紙と実証できないと話していました。

 以前の塾報にも書いてありますが、慎太郎は、父・小伝次が病気で倒れたため、慎太郎は北川村に戻り仕事を引き継ぎ、農民のために活躍します。慎太郎は父の言葉に従い、野友の庄屋・利岡彦次郎の長女「兼」を妻に迎え、村人の生活がよりよくなるためにはどうしたらいいのかということを常に考えて仕事をしていました。北川村は山ばかりで平地が少なく、米をたくさん作るのが難しい土地でした。そこで慎太郎は、毎年一定した量の米が取れるように田んぼを正しい形に整理、村人に家を建てるときの材木用にと「杉」の木や、魚が美味しく食べられること、高く売れることから「ゆず」の木を植えること、また北川村では地震や農作物が極度に不作で食糧不足に苦しむ人々が多く、慎太郎は自分の土地を売ってサツマイモを買い込み、村人達に配ったりもした。それでも食料が足りず、土佐藩家老の桐間蔵人へ土佐藩の米蔵に蓄えてある米をわけてもらうようにお願いしに行ったとのことです。その時、慎太郎が城下町に着いたのが夕刻だったため門番に「明日出直してこい」と言われます。慎太郎は一刻を争う重大なことと眠ることなく門の前に座り続け、夜が明けるのを待ち続けました。そんな慎太郎の思いが伝わり、あくる日桐間蔵人は米を慎太郎に分け与えたそうです。私は、慎太郎が自分の為でなく、村や百姓の為に何故これだけ力を注げたのだろう・・・? ある記事に、土地を売りサツマイモを買い込み、村人達に配り村人を助けようとしたのは、大庄屋という仕事が、村人の生活を守り、平和な生活ができるようにする為、また農作物が不作で、藩に米をわけてもらうお願いに行った事などでは、慎太郎が学んできた事、村での生活から「民衆が安心をした生活をすることができて、初めて殿様や国というものが成り立つ」という考え方をもっていたそうです。又藩の役人と村人がもめごとを起こした時、「我々民衆がいてこそ殿様や国家というものが成り立つのだ。まして民衆の利益を無視した法律なんてあるわけがない。その法律を守って動かすのは人間である。役人がいちいち法律の細かいところにこだわって民衆を苦しめるは何事だ!責任は拙者が引き受ける」と役人を追い返したとも言われています。そんな慎太郎の村人に対する姿勢は、村・藩を越え、国まで広がり、自分の村・民・百姓をいかにして安心して暮らせるようにできる。そんな慎太郎の思いが、幕末の志士として存在を生み出しました。

 私が慎太郎の凄さ・行動力・偉大さのなかで改めて考えさせられたのが、村・藩を越え、国まで広がり、自分の村・民・百姓をいかにして安心して暮らせるようにできる。そんな慎太郎の思いが、幕末の志士として存在を生み出した、とある。四国政経塾は、故松下幸之助氏の意思を引き継ぎ「地域から日本を変える」よりよい生活を提案し、地域を変える事によって日本を変える、と塾の柱としていますが、慎太郎の安心して暮らせるのは国を変えることと、政経塾のよりよい生活をするには、地域を変え日本を変えることとは共通しているそう考えた時、自分は慎太郎のように学力もなく知識も知恵もない、そんな自分に何が出来るのかと考えた時に答える事ができません。人それぞれ思うことや感じ方が違いますが、以前塾報の中で自分が書いた記事の中に「人を考えた時、塾で学んでいる、自分が変われば周りが変わり、周りが変われば、地域が変わる、自分自身を考えた時、人に対して自分という者がどうだろうか?損得を考えず、人を想う心を持っているだろうか?そう考えてみると自分自身がもっともっと変わらなければならない」と書いてありますが、慎太郎は、人を思う気持ちから、自分の村・民・百姓をいかにして安心して暮らせるようにできるかを、自分の損得ではなく国が変われば皆が幸せになる、それならば“国を変えよう”と行動したと、また塾では公の為に何が出来るか?という事も学びます。人は一人で生きてはいけない、人と人とが関わり合って生きている。ならば、慎太郎のように、塾で学んでいる様に、自身の家族の為に生き、職場なら職場の為に働き、地域なら公の為に考え行動する事を改めて考えました。

 中岡慎太郎館では、慎太郎の交友・健脚・政治論・書・剣と5つの局面から分析し、慎太郎がどのような人物だったか、学ぶことができます。中岡慎太郎の維新に果たした功績では、自身の信念を曲げず、大道を駆け抜けた慎太郎、そして慎太郎の人脈の多さ、知識・知恵、何と言っても行動力の凄さは鳥肌が立つほど凄いものです。

 今回の資料館訪問は、同行の塾生・鈴木さんが夕刻4時半頃には帰らなくてはならない為、慎太郎館だけの訪問予定でしたが、大和田塾頭から「もう2時前だけど、帰る途中香南市に絵金蔵があるが、昼食食べて帰ったら時間通りに帰れるけど、5時過ぎるが昼食食べなかったら絵金蔵に訪問出来るけど、どうする・・・?」と、提案が出されました。その提案に同行していた鈴木さんは、予定時間より遅れても大丈夫です、鈴木さんも河村さんも、即答で昼食抜きでも絵金蔵に行きたいと言った。なので絵金蔵に訪問です。絵金蔵までの道中で塾頭が「お昼抜きかよ!」と、冗談を言いながら絵金蔵へ向かいました。

 私は、この絵金蔵も何度か訪問しています。絵金蔵では、3つの展示室があります。

 1つ目・闇夜に開く極彩色の芝居絵「闇と絵金」
 2つ目・年に一度の文化を守るための364日「蔵の穴」
 3つ目・絵金の生涯の謎を紐解く資料室「絵金百話」、あと映像ホール、収蔵庫とあります。

 今回は、まず映像を観ました。その後館内を回るのですが、館内を回る際、入口で提灯を渡されます、闇と絵金展示室は薄暗く、薄暗い中に芝居屏風等が展示されていて少し恐ろしく、やはり何度訪れても独特な雰囲気です。
 絵金蔵の絵金とは、人の名前で「絵師・金蔵」略して絵金です。「絵金」は通称、他にも洞意・友竹・雀翁などとたくさんの名前を持っていますが、江戸で狩野派の修行をして、帰郷後は土佐藩家老桐間家の御用を勤め出世、ところが贋作事件に巻き込まれ、城下追放となり、町に下った絵金は叔母を頼りにこの赤岡の町に定住し、酒蔵をアトリエに絵を描いた。絵金蔵の「蔵の穴」展示室では、壁に穴を空けて絵金の本物を覗き見る事ができます。

 今回の訪問では、改めて考えさせられました。四国政経塾は「地域から日本を変える」というテーマを柱に学んでいますが、まず自分が変わらないと、周りが変わらない=地域が変わらない。行動すれば知識、知恵はつく、自分が変わるには、行動を起こさないと何も変わらない、行動を起こしなさいと言われます。私は政経塾のスタッフであり塾生でもありますが、ここ数年前から月1回の偉人館巡りに関して感じている事があるのですが、その事についてはあえてここでは語りません。
 今年に入り3名新しく塾生が入塾しました。塾では、志・素直・道・行動・知識等、様々学んでいますが、学んでいる事を自分の中に取込み、自身の生活・職場等で実践してこそ、塾で学んでいる意味があります。今回の訪問では、同行の2人は実践できていると感じました。今までなら決められた通り中岡慎太郎館で帰っていたでしょう。しかし2人の応えは違っていた、塾頭の提案に昼食べなくていいから次行こうと言う時点で、塾で学んでいる「人を知る・欲を持つ・素直・行動」等が実践できているのではないでしょうか? 上から目線で感じたら申し訳ないのですが、決して上から目線でなく、今回の偉人館巡りでは、今まで訪問している中で初めて塾生から感じた感想です。
 大和田塾頭含め河村さん、鈴木さんに申し訳なく思っております。次回からは、昼食を抜かないように時間の余裕を考えて偉人館巡りのスケジュールを組みます。今回の資料館訪問は、お疲れ様でした。
平成30年6月2日
目次へ