第 316 号
偉人館巡り・中岡慎太郎館訪問
 今回、私は二回目の中岡慎太郎館に行かさせていただきました。
 今までは、幼少の頃から勉学に励み、様々な立場を経験し、自分を捨て国の為に奔走し、近代社会の基礎を作った偉人・中岡慎太郎。あまりの凄さに「自分には真似できない」 「中岡慎太郎だから出来た」など他人事に捉え「昔の凄い人」で終わっていました。
 そんな中、今回二回目の訪問の中で一つの疑問にぶつかりました。それは「中岡慎太郎はなぜそこまで国を憂うことが出来たのか?」です。その答えを探していると、中岡慎太郎の庄屋時代の逸話にたどり着きました。逸話の中には、土佐で大地震が起こり同じ年には疫病も流行し人々の困窮がひどい時、中岡家の山林や田畑を担保に、近村の富豪や藩に食料や金銭を借り入れ施したり、今後は困窮しないように植林や田畑の開墾をすすめ、作物の優良品種を無償で配り耕作の指導にもあたっていたり、浜渦藤四郎なる富豪が藩有森の払い下げを願った時には、慣例通り実際より些少に申告して大きな山林を手に入れようとしたが、藩吏が来て実地を測量し、違法をとがめて罰せんといきました。慎太郎はすぐに藤四郎の家に行き、条理を尽くして藩吏を説得しようとしたが、受け入れらなかった。すると慎太郎は「民を除きて君主なく、民なくして国はない。まして況んや民の利益を度外して、国法のある可き理由はない。責任は拙者が引き受ける。速やかに帰られい。」と怒鳴り、さらに藤四郎に「今に俺がこの辺り一帯の山をみな払い下げてやる。鹿十と膝つめで話をつけてやるから」となだめたので、藩吏は色を失い、逃げるがごとくに去った。など当時若くして大庄屋見習いとなった中岡慎太郎が厳格な縦社会の農民の立場でありながら、自分より上の立場の人間に対して一歩も引くことなく、民の生活の為に戦い続ける姿、私財をなげうってでも民を助けようとする姿がありました。そのような逸話を学び、私なりではありますが一つの答えに辿り着きました。





 中岡慎太郎にとって、「人を助ける」の一点においては村を助けることと国を助けることはあまり大差のないことではなかったのだろうか。今まで、国という規模で見てしまい、自分には関係ないと一線をおいて考えてしまっていた私には、この答えに辿り着いたとき中岡慎太郎がすごく近くに感じました。そんな中岡慎太郎を見習い、私も身近な人からにはなりますが、家族・友人・地域の人たちに喜んでもらえるように歩んでいき、中岡慎太郎のように、何事にも振り回されない「確固たる自分」作りに力をいれて行きたいと思います。
平成30年6月2日
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