第 331 号
京都 / 松下資料館:偉人館巡り
 6月6日から8日迄、京都に勉強会に行く事に成り、6日朝8時に塾を出て、途中パーキングで食事を取り、一路松下資料館に向かいました、資料館には12時40分位に着き、遠藤館長不在の為、各々が各ブースを見て回りましたが、初めて行った塾生が此処は一日掛けて勉強したい処ですので次回は一日資料館で勉強しようと意見が有り、次回は一日資料館で勉強してみたいと思います、資料館を出て、東寺に向かい、打ち合わせて居た山本氏が東寺の案内をして下さり、普段見学出来ない処も詳しくし説明を受け、少し長い滞在に成りましたが、良い勉強が出来ました、次に三十三間堂に行きましたが此処でも初めての塾生は感動して居ました、抑々三十三間堂でしられているこの寺院は、正式名称は蓮華王院本堂と言います。
           
 三十三間というのは、「三十三間四面」に由来し、お堂内陣の柱間が33もあるという建築的な特徴があります。ちなみに外部から見ると柱間が35になります。もともと後白河上皇が離宮として建てた法住寺殿があり、その一画に造営されました。1249年火災で焼失。後嵯峨上皇によって本堂が再建され、当時は朱塗りの建物だったそうです。桃山時代になると交通の要所だったことに目を付けた豊臣秀吉が大仏殿方広寺を三十三間堂の北隣に造営。三十三間堂も境内に含まれ土塀を築きます。
 現在も重要文化財に指定され太閤塀として残っています。お堂の修復も秀頼にわたり行われます。江戸時代には「通し矢」の舞台となります。
 通し矢は縁の北端に的を置き、お堂西縁の南端から120メートルの距離を弓で射通し、矢数を競い合ったもので、矢数を決めて的中率を競うものもありました。現在は「三十三間堂大的全国大会」が行われています。
 三十三間堂の正式名称、蓮華王院の蓮華王は千手観音の別称。三十三間堂には千手観音像がたくさんあり、現在の数は1001体、すべてご本尊です。国宝の千手観音像、重要文化財の千体千手観音立像。なぜ1000体もあるかというと、千手観音には40本の手があり、1本に25の救いが働いていると言われています。つまり40×251000の救いがあるんですね。後白河法皇は千の手によって無数の救いを願い、千体作ったと伝えられています。1000体の中で124体は創建時代の平安期の尊像、その他は鎌倉期に造られその約500体には作者名が残されているそうです。
 運慶、快慶などの慶派をはじめ、国家的規模で参加されています。千手観音像を眺めていると「会いたい人の顔をした千手観音像」に出会えるそうですよ。
                                             「パンフェレットより抜粋」
 その日の晩は先斗町鴨川の納涼床で涼しい風に吹かれ、楽しい食事を堪能致しました。

 翌日は雨の中、八木亭、霊山歴史資料館、寺田屋、二条城を強行スケジュルで回りました。
 八木亭は新撰組が屯所として使っていた歴史有る建物です、其の八木亭で有った、芹沢嘉門一味と近藤勇一味の壮絶な出来事有った、其のストリーリをガイドさんが語ってくれ、新撰組内にも一つの歴史を伺わせる建物です、芹沢嘉門の仏壇に手を合わせ、霊山歴史資料館に向かいました。

 霊山歴史資料館では入ると直ぐに幕末の志士達、しかも20代、30代の人達が、自分をかえりみず国を大きく動かしたストーリがビデオで流れてれました、資料館の中は、幕末の志士達と主に新撰組の人達の其れぞれの立場行動した当時活躍が展示されて居まいた、外に出て幕末の志士達のお墓を見学致しましたが、何故、坂本龍馬と中岡慎太郎の二人のお墓には鳥居が有るか、何時来ても疑問に思いながら、寺田屋に向かいました。

         

 寺田屋は、江戸時代から続く旅館です。鳥羽・伏見の戦いで焼けたあと、隣接する場所に当時のようすを再現して再建され、現在でも旅館として営業しています。幕末を代表する史跡のひとつです。
 寺田屋では2つの大きな事件が起きています。ひとつは1862(文久2)年に起きた、薩摩藩士による同士討ちです。江戸時代末期、薩摩藩では脱藩して志士として活動する若者が多く、そのことを快く思っていなかった薩摩藩主島津久光は、自藩の尊王攘夷派が京都の寺田屋に集結したことを聞いて刺客を送り、 何人かを殺し、何人かを送還しました。送還された若者の中には、のちの西郷従道や大山巌もいました。もうひとつは1866(慶応2)年に起きた、伏見奉行による坂本龍馬暗殺未遂事件です。薩長連合を成し遂げた坂本龍馬は、行動を共にしていた長州藩士、三吉慎蔵とのちに妻となるおりょうを待たせている伏見の寺田屋へ向かいました。真夜中に到着し、龍馬と三吉慎蔵が飲み始めたところ、伏見奉行所の捕吏たちに取り囲まれてしまいました。龍馬と三吉慎蔵のために布団を敷いてから風呂に入ったおりょうは、窓から外を見てびっくり。裸のまま階段を駆け上がって、捕吏たちに囲まれたことを報せました。乱闘とはなったものの、おりょうの裸の報せのおかげもあって、龍馬と三吉慎蔵は窮地を脱しています。                                 「パンフレット参考」

 寺田屋を後にして二条城に向かいました。
 二条城は世界遺産に登録され、重要文化財の東大手門を入ると、重要文化財の唐門が豪華絢爛の姿が見えます、只々圧倒です、抑々二条城は、1603(慶長8)、江戸幕府初代将軍徳川家康が、天皇の住む京都御所の守護と将軍上洛の際の宿泊所とするため築城したものです。将軍不在時の二条城は、江戸から派遣された武士、二条在番によって守られていました。3代将軍家光の時代、後水尾天皇行幸のために城内は大規模な改修が行われ、二の丸御殿にも狩野探幽の障壁画などが数多く加えられました。壮麗な城に、天皇を迎えることで、江戸幕府の支配が安定したものであることを世に知らしめたものです。1867(慶応3)には15代将軍慶喜が二の丸御殿の大広間で「大政奉還」の意思を表明したことは日本史上あまりにも有名です。
 二の丸御殿、二の丸庭園、唐門など、約400年の時を経た今も絢爛たる桃山文化の遺構を見ることができます。1994(平成6)、ユネスコ世界遺産に登録された二条城は、徳川家の栄枯盛衰と日本の長い歴史を見つめてきた貴重な歴史遺産と言えます、是非一度見に行って下さい、身に行く価値は有りますよ。

 二日目は流石、足の調子が悪く、東寺の山本氏にお願いし、夕食処を紹介して頂き、京料理のきぬがわさんで頂きました、山本氏を囲んで、東寺の話、仏教の話等イロイロなお話をし楽しい食事が出来ました、山本氏に感謝です、ホテルに帰り直ぐに床に着き、翌朝お土産を駅のショピングセンターで買い帰路に着きました、少しハードなスケルージュでしたが大変勉強に成った京都でした。
令和元年6月8日
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