第 47 号

京都偉人館巡り

 1月15日・16日の二日間、京都を訪れた。昨年の後半はリコール署名活動や選挙などの関係で偉人館巡りが中断されていたので、久しぶりの勉強会ということになる。

 今回も前回と同じ、京都政経塾第3期卒塾生の岩田さんに案内していただいた。
 京都に着いてすぐに昼食をとった。この付近には島津創業記念資料館があり、当初の予定にはなかったのだが岩田さんが薦めてくれたので見学することにした。ここは島津製作所が創業100周年を記念して開設した記念館である。島津製作所のことは、ノーベル化学賞を受賞した田中耕一さんが勤めている会社だという認識はあったが、何を製作していてどういう会社なのかということまでは知らなかった。そのため見学中は驚きの連続だった。館内は製造された理化学器械や医療装置が数多く展示されていて、会社の発展と発明の足跡が刻まれている。

 そして、製作所発祥の地であるここ木屋町二条は近代科学発祥の地であったのだ。
 さらに、ここ京都は日本で始めて学校が設立された場所でもある。いい人材を育成していこうと資金を教育に回したのだ。長岡藩の米百俵の精神に共通している。教育は国家100年の大計なりというが、先人の長期的視野にたった教育の必要性やあり方を痛感した。 ちなみに、島津製作所の社章は、赤丸に十の字である。かつての島津藩の藩章と同じだ。これは、初代島津源蔵が島津藩主を接待した時、藩主より直に島津性を与えられたことに由来している。

 島津製作所を出た後、町を歩いて新選組が一躍名を挙げた池田屋跡地や坂本竜馬と中岡慎太郎遭難の地である近江屋跡地を見て回った。
しかし、繁華街に石碑が建てられているだけで当時の面影はまったく残っていなかった。幕末の名所が石碑一本だけとは、少し寂しい気がした。
 その後、竜馬ら海援隊がよく使用した酢屋を見学し、夕食を済ませてから島原の輪違屋を訪ねた。前回に来た時は、輪違屋のことを知らなかったのでその凄さがあまり理解できなかったが、京都唯一の置屋であり、一元さん絶対お断りという非常に格式の高いところなのだ。マスターの高橋さんとも約1年半ぶりの再会だった。そして、今回はなんと太夫さんがいて部屋に来てくれたのだ。舞妓や芸妓も見たことがないのにいきなり太夫とは・・・感動(塾頭に感謝!)。着物や飾りをまとい、白い化粧を顔一面に塗り、京都言葉でしゃべる太夫は美しく、時代の風情をしみじみと感じた。常に死と隣り合わせだった150年前も、きっと近藤局長らが馴染みの太夫や芸妓さんたちとここで同じように飲んでいたんだなという思いにふけながら楽しい一時を過ごし、ホテルへと帰った。

 翌日は、最初に新選組の芹沢一派が暗殺された八木邸を見学した。当時の刀傷が、前回の見学時と比べて浅くなっていた。きっと、大河ドラマの影響でたくさんの見物人がさわったためだろう。
 次に、東寺を見学した。ここは五重塔をはじめ数々の国宝の仏像が置かれている寺である。五重塔で一番驚いたのはその耐震構造だ。地震で揺れると、各階が交互左右に移動して塔全体の均衡(バランス)をとり、倒壊を防ぐ造りになっている。1200年も昔、重機類が何もない時代にこのような技術を取り入れてこれだけの塔を建築した先人達には頭が下がる思いだ。

 そして、最後に坂本竜馬がよく宿泊した寺田屋を見学した。「京へ来たなら 一度はお寄り 伏見寺田屋 坂本竜馬 昔白刃の 裏梯子」と詠われ、今も泊れる維新の旅籠になっている。当時の女将お登勢が竜馬の身に忍び寄る殺気を感じ、嫌がる竜馬を奨めて画家に書かせた暗殺される直前の絵像が飾られていた。維新はこの一室から始まったのかと感じながら見学した。

 京都は当時のまま残されているところが多く、維新志士達の想いを肌で感じることができる。今の日本はよく幕末に例えられるが、現代の若者達が彼らほどの勇気と行動力を持っているのかどうか。私も至らぬところが多いと考える。しかし、時代は違えど、通じるものは変わらない。彼らの足跡を自分のこれからの参考にし、日々の勉強と努力を重ねていきたいと思いながら古都をあとにした。
平成17年1月16日
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