第 51 号
維新の街・京都訪問U


 平成17年1月15〜16日に大和田塾頭以下6名と共に、偉人館巡りに参加する。京に上ること数十回を越え塾としての活動としての参加も今回で2回目である。また、元京都政経塾塾生の磐田さんにおかれましてはご多忙の中、二日間にわたり京都の案内をして頂き誠に有難うございます。この場をかりまして御礼申し上げます。

 現在、京は日本の様々な分野において、例えば、政治、経済、商業、文化、芸術等中心的存在の象徴というべきものが数多くのこっており国際都市としての評価が高い。120年前までは、数千年続いた日本の都であるほか、偉人館巡りを重ねることにより幕末明治維新の源流または本流でもあるということが実際訪問することにより多少であるが認識出来た。簡単に偉人館巡りを説明すれば、下記の通りです。

【偉人館巡りコース】
 一日目=昼食『がんこ』高瀬川源流庭園→島津創業記念館→高瀬川一の船入り→三条通
       佐久間象山・大村益次郎遭難の地碑を西に入ル→池田屋跡の石碑→坂本龍馬・中岡慎太
       郎遭難の地の石碑(近江屋事件発生現場跡:
18671115日)→古高俊太郎跡→
       本間清一郎遭難の地碑→夕食東山『松葉亭』→島原・輪違屋


 二日目=壬生・八木邸、前川邸→東山霊山→九条東寺→伏見寺田屋

 二日間での感想は2つに要約致しました。

@ 1月15日昼前に京都着、宿泊先で磐田さんと合流後、角倉了以(15541614の別邸、山県有朋の別邸でもあった高瀬川源流庭園が見える『がんこ』にて昼食。続いて、通りをはさんで西側にある島津創業記念資料館では親切に館長に案内して頂く。印象に残ったことは、初代源蔵が京都御所で初めて水素気球の飛揚に成功した版画がありその中には、伏見から取り寄せた酒樽に鉄屑をいれて希硫酸を入れ気球を飛ばそうとしているもので当時の開拓者の創意と工夫と好奇心の強さが感じられた。 二代目源蔵は、京都大学と連携で蓄電機を製造に成功し蓄電池部門を独立させ日本電池を設立するほか「GSバッテリー」のGSは島津源蔵の略であること、また電池の塗料部から大日本塗料を設立。現在、普通に使われているレントゲン機器や秤量機、ポンプ、などの原理発見から様々な科学技術の革新の過程がわかる資料も記念館に集約されており大いに参考になった。また、昨年ノーベル化学賞を受賞された田中耕一さんのコーナーもあり[生体高分子の同定および構造解析のための手法の開発]発見は、わずかなノイズを見逃さず追究し続けまた失敗を失敗として切り捨てることなくプラス志向として前向きに取り組んだ成果があったからだと述べられていた。最後に、館長より頂いた《事業の邪魔になる人》《家庭を滅ぼす人》の30か条+実行に努むる時3条の教訓・家訓は、日々の生活・仕事に活用させていただきます。

A 木屋町は字の通り、昔は材木が運搬されていた名残でもあり、高瀬川は、角倉了以・玄之の土木工事であるが。大坂・伏見・二条までが水上交通できるようになり従来一般的に陸路を利用し牛車、大八車から高瀬舟にのって米・塩・材木など数々の物資が搬入されるようになり人との交流も盛んになったのだと思う。二条、三条、四条散策時は、木屋町の柳の下を上ル下ルとともに、河原町通りを人混みのながれにのって上ル下ル、人を避けるように筋目を西に東に入ルを繰り返す。幕末に関係するところを満遍なく散策する。要所要所で石碑があり写真を撮るがかえって恥ずかしくなってしまうくらいに通行人は無関心に通りすぎていく光景は実に殺風景にさえ感じる。ここが古高俊太郎が新撰組に捕らえられて拷問に会い倒幕への計画を自白した壬生・前川邸、新撰組が血眼で草莽の志士を巧に探し、また一方では三条四条にあった長州ひいきの旅宿・料理屋池田屋、坂本龍馬が身を寄せたところ、海援隊京都支部でもあった酢屋などでも命がけで自分の死をかえりみないで志士達を守ったりした。島原・輪違屋などの花街も壬生浪士が通うようになってから長州藩の志士達が祇園・木屋町に移ったり縄張り争いも頻繁になされたり、伏見の寺田屋に訪問した際に語り部よりお登勢・お龍の話などは人の出入りが激しかった船屋旅館での人間味のある行動など考えた時、京の新しい物好き、人情味のある行動は如何に志士達の活動を大変理解したものが多かったと考えられた。

 最後に、現代という時代と、その当時の価値観にたって物事を考えていくと、どちらが正しい悪いの、問題でなく偉人等の生き様・志がわが身の固定観念をこえて、ストレートに語りかけてくれる。『如何に本気で行動にするか』にかかっているといえよう。

平成17年1月16日
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