第 99 号
岡山・高梁市訪問
 8月19日岡山県の高梁市に出かけました、高梁市は三回目の訪問ですが、以前から、折角、高梁市に来ても、山田方谷が見えない。
 そもそも、私が高梁市を訪問するように成ったのは、森氏との話の中で、山田方谷をより多くの人に知って貰い、高梁市の活性化が目的でした。
 一回目の訪問時は役所の関係者と山田方谷を研究している人達との話し合い、二回目は、山田方谷先生の生誕200年記念行事の参加でした。


 今回の訪問で高梁市の魅力、素晴らしさが前回の訪問よりもましました、今回は森氏の案内で、先ず、吹屋ふるさと村を訪ね、吹屋ふるさと村は吹屋銅山の繁栄の面影を現代まで残している町並みです。吹屋銅山とは古文書によると大同2年(807年)「大深谷に鉱気これあり銀鉱を得」とあり,何時の頃か銅山にかわり採鉱師によって採掘され戦国時代地方の豪族尼子氏,毛利氏の領有するところとなったが,徳川時代は直轄地(天領)となり,代官の支配下で諸国の銅山師が請負採掘した。泉屋(住友)が天和元年(1681年)より30余年採掘経営中最も栄えたのは元禄年間で日本6大銅山の一つとなり,町も大いに栄え人口も数千人に及び多くの商人や芸人も集まり,遊女屋も開かれたと伝えられている。

    

 次いで大塚宗俊の子孫代々が吹屋銅山を経営し幕末に至るまで約100年間これに関係している。備中一の宮の吉備津神社の大鳥居は宝暦12年に大塚理右衛門が独力建立寄進したものである。この頃が吹屋は第二期の繁栄期である。明治6年(1873年)岩崎弥太郎(三菱)に移り,水力自家発電により選鉱,精錬,坂本から成羽まで,トロッコ専用道路を敷設するなど近代鉱業として明治年間大いに栄えた。町も第三次の繁栄をしたが,昭和期に入り次第に衰え現在は閉山されている。
 こうした中にあってこの笹畝坑道は多くの銅山抗口がある中でも比較的変化に富み,当時の面影を残す坑道跡で,昭和53年度吹屋ふるさと村整備事業として復元整備され,昭和54年11月から一般に公開している。坑道の復元延長は320mで中央部は蜂の巣のように採掘されており,また鉱石搬出用軌道も残されておるなど見せ場も多く,内部気温は15と夏は涼しく冬は暖かい別天地である。鉱山の残した町並みを探索すると、タイムスリップしその当時の生活感があじわえ、当時の繁栄がどの位凄いものかあじわえる空間でした。他に高梁市の観光施設は開けて見て下さい「http://ftown.boo.jp/takahashi/
高梁市
市内には武家屋敷、神社仏閣が昔のまま沢山残り、観光資源に宝庫でした。

    

 この高梁市を含め陽明学の先駆者である、山田方谷を何とか全国の人に広めたいと切に願いつつ高梁市を後にしました。次回又高梁市を訪問し山田方谷の凄さを報告したいと思います。
平成18年8月19日
目次へ