韓国・機会の学塾訪問
愛媛県 上島町『しまの大学』について
 4月19日(木) ~21日(土)、姉妹塾・機会の学塾の勉強会に参加。学塾へは、久しぶりの訪問になります。今回の訪問で少し困ったのが、以前飛んでいた飛行機便の時刻が変更していて、早朝からの出発、帰国便も早朝からの帰国となり、正直大変でした。今回の学塾への訪問では、以前、大和田塾頭が上島町の“しまの大学”の事を学塾の劉判洙先生に話をしたのが切っ掛けとなり、劉判洙先生がしまの大学のHPを見て、是非しまの大学に訪問したいという事で、学塾への訪問が決まりました。

 しかし、しまの大学に訪問したいと言っても、学塾の方にはしまの大学の説明をしなくてはいけません。その為、しまの大学代表執行委員・兼頭一司氏に話を聞く為3月25日、兼頭氏に会いに行きました。当初、兼頭氏も学塾へ同行する予定でしたが、日程が合わず韓国へ行けなくなり、学塾の方
々に、上島町の事やしまの大学に至るまでの経緯について知
ってもらうために上島町のパンフレット、しまの大学が開校から今までの新聞をいただき、急遽兼頭氏にはインタビュー式で、話を聞かせて頂きました。ボイスレコーダーに録音し    愛媛県上島町弓削島
た兼頭氏の話を文章にまとめ、それを韓国語に翻訳、パンフレット資料の一部も翻訳し、学塾に訪問するまで大変な作業でしたが、学塾の方々がしまの大学に訪問するにあたり、より解り易く理解して頂くため、完璧ではないですが、しまの大学に訪問しやすいようにと準備をして、学塾に向いました。

 学塾の勉強会では、まず、こちらから用意した資料、そして兼頭氏のインタビュー内容を翻訳した文章を学塾の塾生に読んでもらいました。兼頭氏のインタビューでは、6項目に分け質問させて頂きました。

 1,兼頭一司氏が何故上島町に興味を持ったのか、またそ
  れは何時頃だったのか?


 2,上島町に移住して、まず「しまの会社」を立ち上げ、そして「しまでCafé」を立ち上げ、
  それ以降、しまの会社・しまでCaféから、しまの大学に至るまでの経緯


 3,しまの大学に、神野教授を学長に選んだ理由

 4,しまの大学が開校して1年、大学の新聞を拝見していますが「摘み菜」が全面的に出てい
  ますが、摘み菜とその他の事業部はどのような活動をされているのか?


 5,今までの話を聞くと大きく考えたら、この上島町で一つの国をつくろうと、それが日本の
  国のモデルになれば良い、これは多分政経塾の合い言葉である「地域から日本を変える」
  という言葉に匹敵するのではないかと、今までの話からそのようにとれたのですが、上島
  町を日本のモデル地区に作り上げる為に、しまの大学を大きく育てるという事。ひとつ一
  つ学部を必要に応じて増やしていくという事ですか?


 6,最後に、四国政経塾の姉妹塾でもある韓国釜山市の『機会の学塾』が、しまの大学に見学
  に来るにあたり、兼頭氏のメッセージを一言

                                  以上、6項目です。

 兼頭氏は、上島町で育った方ではありません。まず直接的には、現在「しまの会社」を一緒に立ち上げ運営をしている、村上律子さんとあるシンポジウムで出会い、それが最初の上島町との出会いの切っ掛けになります。
 ある場所で彼女が講演をされていて、その話に興味を持ち、直に島に行かせて頂き、そして、いろんな活動を見させて貰ったり、あるいは参加させて貰ったり、また人を紹介して貰ったりという事で、段々と足繁く通うようになり、その当時の兼頭氏は、松下政経塾に所属して、その3年間のうちの最後の1年間を上島町の島々に通う形で研修をしており、いろんな地域活動に参加したり、あるいは調査活動をしたりという事をしていました。その1年間の中でいろんなご縁を頂いて、『非常に“面白い”とにかく地域の人たちが元気だし、高齢化はしているのですが、おっちゃん、おばちゃん達が、地域の為にいろんな活動をしている、こういう人たちと、こういう場所で一緒にやって生きたい』という事で、上島町で活動しようと決めたそうです。しまの大学に至るまでに、兼頭氏は、まず上島町に移住する事を決め、「しまの会社」を立ち上げ、次に「しまでCafé」を立ち上げ、そして「しまの大学」と・・・。
 兼頭氏は、松下政経塾を卒塾して、上島町に移住したのが約年前、その半年間の間、通っている間に構想をし、島民の皆さんに説明をして人集め、参加者を募ることをしていました。そして半年後にしまの会社を立ち上げた。「しまの会社」とは、島民の島民による島民の為の会社という事を掲げています。地域の皆で必要な事を考えながら、自分たちの手で盛り上げていく、いろんな地域の問題がありますが解決しながら自立していく、特に今は財政的にも非常に国家財政事態が緊迫している状況で、そこに依存しているのが地域のいろんな地方の実情だという事、これは今の財政状況を一つ取って考えても長くは続かない、何れ自律しなければならない、しかも一方で、かつての田舎の農村社会が社会全体を支えている、精神的にも支える。あるいは職業や環境、エネルギーの問題を支えてきたものが、都市化して地を集中化してそういう物が崩れてきた結果いろんな問題が起きているという事においても、今なんとか地域を、地域社会を自立の道に向かうようにしなければ、本当に社会全体が根底から崩れていってしまうというような意識もあって、そういう意味でもやっぱり地域の皆で自立していくようなモデルを作りたいという事で立ち上げた訳です。そうは言いつつも、いきなりいろんな事を自分たちの手で全て出来るわけではないので、まず交流の場所を作り皆でワイワイ話し合いながら、それで今ある地域の資源を活かしながら、まずは経済の自立という事で、地域のコミュニティーの場所が必要となり、「しまでCafé」を立ち上げた。「しまでCafé」は、コミュニティーCaféという事で、島の人たちが集まって交流をしたり、あるいはいろんなアイデアを持ち寄って新しい事を始めたり、あるいは外へ向けて発信をするという場所をまず作ろうという事で、交流できる場所を立ち上げたのが「しまでCafé」というコミュニティーCaféになります。

 地域の資源を活かして物産開発だとか、流通開拓であるとかそういう事を行ない、それで出てきた収益をただ分配するのではなくて、いろんな地域の開発、あるいは将来の投資、新しい事を始める為の基にして行こうというような形で進めています。
 それで今は、そう言った物産・流通開拓をしながら、一方で地域の中の、例えばお年寄り向けのサービス、お弁当宅配、福祉施設の食の配食、そのお年寄りの困っている事などを聞いてサポ
ートする。島だとよくあるのがお墓掃除、島は傾斜地が多いので、お墓掃除に行きたいのだけれども、なかなか歩いては行けないという事で、それを代行、または荷物を運ぶ、行政がサポートできないお年寄りの生活に、困っている事をサポートをする。あるいは耕作放棄地というのがどんどん増えて来ている中で、農業の衰退だとか、景観だとか災害面での問題だとか、耕作放棄地によって引き起こされる風景が、やっぱり人々の心の中に与える影響が大きい。そういう影響が大きいと思うので、少しでもそこに鎖を打ち込む事で、衰退のシンボルに成っているものを再生のシンボルに変えていく。また、様々な情報を集めてオーナーを募集したり、それぞれのキャンバスを作り、商品作り等、多様な事業を起こし、自分たちの力で地域を自立させていく、地域を自分たちの手で運営してゆくというようなところに持っていきたいなという事で、島民の島民による島民の為の会社と言っています。そういう活動しながら、参加の度合いも深くして、やっぱりまだまだしまの会社の活動も意識の高い人たちの中で留まっている部分もあって、これももっともっと本当の意味で、島民全体、島全体の物にしていかなければならない、それをすることによって他の地域でも「あぁ~、そんな事が出来るんだ」と思ってもらえる、上島地域だけが良くなる事が目的ではないので、こんな大変なこの離島という条件の中でも実質出来るという事によって「あ~、それなら、俺達にも出来る」という事で、いろんな地域がアクションを起こしていく、またはヒントにして真似る、そしてそういう動きがどんどん出て来て、地域同市が連携していく事で、日本全体、あるいは世界の地域にも真似してもらえるようなモデルが出来ると思い努力しています。そういう意味でも、もっともっと大きい波にしていかなければいけない、参加者も参加の度合いも、もっともっと深めていかなければならないという事で、その為にはどうしたら良いかと考え、もっともっと参加しやすい環境、学びながら楽しみながら、地域から解決する方法がないのか、その際、ただ皆で頭を捻るだけではなくて、外からいろんな知恵を集め、都会の人たちのアイデアとか、あるいは企業の力、研究機関の力、そういう物を他の地域から力を借りながら一緒に、解決していくモデルが出来ないのかというところで、思いついたのがしまの大学。地域課題という物を一つテーマにして、いろんな地域課題がありますが、福祉の問題、高齢者の問題、産業の問題も、いろんな問題がある中で、一つテーマを設けて、それに対していろんな知恵を集めて、住民主体で取組む、学びながら取組む、それもお互いがある時は先生教える立場で、ある時は学ぶ立場でというような、お互いが先生であり、生徒である関係の中でやっていくという事、地域から各部だとか学会を見立て、これをまたいろんな地域に展開していくという事、それならば地域をキャンパスに見立て、教室は地域のフィールドでというような形で展開できる、それが一つのまた地域からの解決の問題、地域の人達の参加しやすい環境作りの一つのモデルとなれば良いかなという事で、2年程前から着想し準備を始めて、1年前の4月にしまの大学を開校した。
                     上記説明は兼頭氏インタビュー内容の一部です。

 ❖しまの大学とは・・・
 平成23年4月にしまの大学が本開校。しまの大学とは、地域の中と外とがコラボする新しい地域づくりモデルを全国に発信する為の大学です。開校時の学部は、・香と癒し学部・摘み菜学部・商品開発部の3学部を設置、学長には経済学者 神野直彦東大名誉教授が就任。開校後は、各部月一回程度の講座プログラムを実施、随時島内外から参加者(学生)を募集。学部内容については、しまの大学HPをご覧ください。HPhttp://www.shimanodaigaku.org/

 
上記、兼頭氏のインタビュー内容は全てではないですが勉強会が午後7時~9時前に亘りましたが、学塾の方々には、上島町の事、しまの会社・しまでCafé・しまの大学について、充分理解して下さったと思います。大和田塾頭が大学について説明をしている間、熱心に聴いている塾生もいましたし、メモをとっている塾生もいました。劉判洙先生からは、しまの大学に訪問するにあたり、6月頃訪問したいとお伺いしていました。今回の勉強会で島に移住した兼頭氏に興味を抱き、上島町・しまの大学に是非6月に訪問して下さる事を願います。

        

 二日目は、機会の学塾のスポンサーでもある、ソンジョンテレコムのヤン会長のお見舞いという事でした。今回韓国へ行く、1ヶ月前位だったと思うのですが、しばらくヤン会長と連絡を取
って無かったのが気になり、「ヤン会長は元気にしているのかな?」と、ヤン会長に連絡を取ったら、入院されていて、4月に韓国に行くので、お見舞いに行きますと約束をしていました。ですが、私たちが訪問した日には、退院されていて、昼食を一緒にしましょうという事になっていて、ヤン会長と昼食を共にしましが、ヤン会長は風邪気味で少し熱があったようです、でも昼食の約束をしていたからと、体調が優れないのに昼食をご馳走してくれました。食事をしながら、懐かしい話で盛り上がりましたが、やっぱり東北の震災の事とか原発の話も出ました。すごく日本の事、私たちの事を心配してくれていて、感謝しています。ヤン会長も今後無理をせず、体調を整えて元気で過ごせるように、日本から祈っています。有難う御座いました。昼食後、夕食までの時間、ホテルでゆっくり休みました。

 夕方5時に、学塾の事務局 チェ・ジホさんが迎えに来てくれて、海雲台にある刺身料理店へ向かい、学塾ソン塾長他、卒塾生の方々と夕食を頂きました。今回の夕食では、劉判洙先生が不在だったのが残念でしたが、いろんな話で盛り上がり、食事中、しまの大学訪問には、是非6月に行きたいと言う声もあり、とても楽しい時間になりました。食事後、30分でいいからCaféに行きませんかとお誘いがあり、コーヒーを飲んで、ホテルへと帰りました。翌日午前7時ホテル出発という事もあり、さっさと帰る準備を済ませ、床に入る事にしました・・・が、結局2・3時間の睡眠しかとれませんでしたが、何とか翌朝3日目無事帰国。

 最後に、滞在中学塾の皆様にお世話になり、また、学塾のソン会長、事務局 チェ・ジホさんには、道中の送り迎えで大変お世話になり有難う御座いました。
平成24年4月21日
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