「何のために生きるか」

 松下村塾にはいろんな人がおりました。松陰の偉いところは、自分が死刑になるとだいたい予感していたので、獄中から一人ひとりの弟子の身の振り方を、それぞれ決めてやっていることです。
 その中に、天野清三郎という勉強ぎらいで見込みがないと思われる弟子がいた。松陰は高杉晋作に「高杉、お前が自分に代わって面倒を見てやれ」と言いました。そこで高杉晋作は、天野清三郎を引き取って、腰巾着みたいにして勤皇運動をして歩いたわけです。高杉は天才中の天才といわれるくらい頭のいい人でした。一方天野は鈍才中の鈍才です。「とてもじゃないが高杉さんのまねはできん、わしは政治運動には向かん事を気づき、何になろうかと考えた」ところが、耳の中に松陰先生の言葉が残っていた。
「お前たちの中で黒船を造る者はおらんか。あれを造らなければ日本は植民地にされてしまう」と言った。「そうだ。おれは勉強嫌いだけれど、手先の仕事は好きだ。だから舟大工になって黒船を造ろう」そこで彼は、慶応三年に密航して上海に逃げ、そして上海からロンドンに渡り、ロンドンの造船所で働きながら船造りを覚えようとました。ところがやってみると、船を造るには、基礎の数学・物理・力学といった学問を徹底的にマスターしなければならない、彼は勉強嫌いだから船造りになろうと思ったのですが、勉強しなければならない、しかも、天野は鈍才中の鈍才です。ロンドンという異郷の地で、英語を使って数学や物理、力学を勉強するのですからもう血を吐く思いだったと思います。夜学校に入ったのですが、わからない、数学のスの字も知らない人間が、いきなり造船学の基礎になる高等な数学を勉強するのですから解らないのが当たり前です。でもこれをやらなければ、自分の生きる道がないと考え、今度はアメリカへ渡って、ボストンの造船所で働きながら夜学へ通いました。すると今度は不思議に良く解ったそうです。英語も上達していたし、アメリカの学校の教え方が進んでいたのでしょう。
 そうやって辛苦の末に造船学をマスターし、明治七年に横浜に上陸した。そして東京へ訪ねていけば、かつての松下村塾の仲間が明治政府の高位高官にいるではありませんか。面会に行き、「アメリカで船造りを覚えてきた」「よしっ」ということになって、天野清三郎は、明治政府が長崎に造った日本最初の長崎造船所の所長になり、今日、世界一の百万トンドックがある三菱造船所の初代所長になり。世界に冠たる日本の造船業界の、文字どおり草分けの第一人者になった。後に名を改めて渡辺蒿蔵といい、日本郵船の社長にもなりました。
 松下村塾のいわば落第坊主、勉強嫌いの天野清三郎が、どうしてロンドンやボストンで、血を吐く思いをしてまで勉強することができたのか、その底力はどこから出たのか。それは、自分は何のために生きるのかを真剣に考えた末、自分の持ち味の発揮と、世のため人のために役立つことが結びついたから、どうしても果たさなければならないという強い志を持っていたからです。只、残念なのは、現代社会おいて、天野の様な鈍才中の鈍才は、入学・入社ではじかれてしまい、はじかれた人達は、其のまま自分の世界に入り世の中に背を向ける人物に成るのでは? 何故、人を育てるという事をしないのか疑問で有る。
 人間はこの世に生まれたからには、必ず其の人の役目が有ると言われます。自分の志を強く持ち、その人の道を歩き出した時、初めて、自分の価値を見つけられるのだと思います。皆さんも自分の家族、友達からでも、大きな気持ちで見守り、その人に取って良い選択が出来るまで、松陰の様に気長に見守ってあげれば、世の中少しは変わるのではないでしょうか。

第1番 霊山寺へ      目次へ      第3番 金泉寺へ